( 1 )田中角栄入門
( 2 )田中角栄 考
( 3 )田中角栄のマスコミ支配
( 4 )田中角栄の犯罪


 田中角栄はこんな たとえ話 をした。
 一本の川が流れている。
 上流と下流に町がある。
 二つの町の代表が、代議士に橋を架けてくれと言ってきた。
 そのときどうするか。
 ①調査をして、より必要性の高い方に橋を架ける。
 ②そのうちにと言い続けて、何もしない。
 ③無駄だと思っていても、二つに橋を架ける。
 角栄は①を選べば選挙で落選するという。
 なぜなら、橋を架けてもらえなかった町民の支持を失うからだ。
 これに比べて、②を選べば選挙は安泰だ。
 しかし、田中は③を選ぶという。

 この流儀で田中は本州と四国を結ぶ橋を3つ架けた。
 もちろんこんな馬鹿げた計画に大蔵省は反対した。
 しかし、当時幹事長だった田中は、四国にいる大平正芳と三木武夫の二人の実力者に配慮して、強引に昭和45年度予算に組み込んだ。

 こうして本州四国連絡橋公団ができ、小島・坂出ルート(瀬戸大橋)と神戸・鳴門ルート、尾道・今治ルートが出来たが、利用者はさっぱりで、累積赤字は4兆5千億円になった。
 その金利を払おうにも金融機関は金を貸してくれず、自治体から金を貸してももらっているが、これが地方の財政を圧迫し、破綻させようとしている。
 こんなことが、何十年間も全国各地で行われ、私たちはこれからさらにその負債に苦しめられているわけだ。





 
 
 
 
 
 
 
 





 古来、日本人の情念には 「滅びの美学」 があった。 それは卑怯や未練を恥とし、死をも恐れぬいさぎよさがあった。 会田雄次氏によれば、世に抜きんでて生きようとする権力者、大泥棒、革命家は、名誉と斡持を守るために死をも覚悟しなければならないという。 こうした美学が消滅したのは戦後である。 金権万能と事なかれ平和主義の社会風潮であった。
 いまや品位も礼節もあったものではない。 いまどきの奔放な少女たちの性行動があり、彼らを野放しにして給食費を払わない母親がいる。 この社会にしてこの政治家である。 それは長く生き延びて、いまは不正献金を秘書の仕業であるとする首相をいただく。

壮烈な死にこと欠かぬ日本

 日本人の中で一番壮烈というか、無茶というか、ともかく驚くべき死に方をしたのは大内義弘ではないかと思っている。 1399年( 応永6年 )の冬12月21日朝、45歳のかれは将軍義満に反抗して堺で戦い敗死するのだが、 「大内氏実録」 によるとその最期の様子は次のようである。
 味方はことごとく討死し、義弘も29ヵ所に負傷した。 このときかれは、 「天下無双の名将大内左京権大夫義弘入道な り。 我が首をとって御所様( 将軍 )のお目にかけよ」 と呼ばわり、手に当る兵をつかんで二丈ばかり投げとばし、鎧をくつろげる間がないので打ち刀を抜いて逆手にとり自分の口より馬の鞍まで刺し通して絶命した。 鞍に縫いつけられたため馬より落ちない。 馬は驚いて狂奔する。 敵兵たちは、これを見てまた義弘が駈け出して来たと右往左往逃げまどった、と。
 それは正に一幅の絵になる凄惨極まる光景だったといえよう。 室町、戦国の時代は、このような自決、戦死の光景に満ちている。 世が動乱の時代だったからそうだというわけではない。 徳川泰平の時代でも、日本はこのような壮烈な死にこと欠かなかった。


いざというときの強い覚悟

 日本人は滅亡の美学、死の美学をもっぱら奉じて来た珍らしい民族だといわれる。 たしかに心中や殉死などが文学の中心になっている国は殆ど見られない。 ただここで、その死に方、最期が壮烈であったり、健気であったりしたとき、その男がたとえ親殺し、主殺しといった悪人でも、有名な大泥棒でも、その人間の評価が逆転とまでは行かないにしろ、著しく良くなるという点に注目したいと思う。 死に方がただ憐れなだけでは同情はされても評価されるという風には行かない。 いわんやぶざまだったり、卑怯、未練で醜態をさらし出したらひどいことになる。 これは当の本人でなく、妻子、眷属けんぞくの死に方でも同じ結果を当の本人に及ぼす。 こういう現象こそ死の美学が国民を動かしていた最も痛切な証明の一つになると思う。 こういう国では権力者、権威者、大金持、大泥棒、謀反人、革命家、何でもよい、人並ではなく、ともかく人に抜きんでて生きようとする人間はある覚悟をしておかねばならぬ。 その覚悟 とは、自分の名誉、矜恃きょうじを守るためにも、正しく理解してもらうためにも、いや、そんな大層なことでなく、せめて物笑い軽侮の対象にならないためには、いざというときいさぎよい死に方をするだけの精神的訓練を自分に課しておかねばならぬということである。 自分だけではない。 妻子、家族に対してもであり、これは逆にいうと、そういう 「大物」 の妻子、近臣であるためには、妻子もその覚悟が必要だということになろう。 より大物であればあるほど強い覚悟がいること勿論だ。
 殺生関白秀次が秀吉によって高野山に送られ自決させられたとき、その妻妾28人も、幼児たちも三条河原で斬られた。 多くは辞世の和歌も詠み覚悟して死んだのだが、とり乱して泣き叫ぶものもかなり出た。 このことがやはり秀次の物笑いの種になった。 秀次の首と妻妾を放りこんだ穴に後代立てられた塚には、悪逆塚とか畜生塚という文字が刻まれたという伝説も妻妾たちのこの悲しいとり乱した死に方と無縁ではない。


「金権万能」 呈す政治家醜態

 反対の例がある。 松永弾正久秀は将軍足利義輝を殺し、奈良の大仏殿を焼くなど悪逆無比といわれた男だが、信長に降参、その家来となった。 だが謀反ぐせはなおらず結局敗死するのだが、その謀反の際かれの人質だったその子、12歳、13歳の兄弟は六条河原に斬られた。 この兄弟は心も姿もゆうにやさしかったが、最後のときは髪も整え、衣装も美しくあらため、静かに西に向って小さい手を合せ、声高く清らかに念仏を唱えながら斬られた。 信長の側近の記した『信長公記』でさえ、その有様を 「見物の衆、肝を消し、聞く人も涙せきあえず」 と記している。 あれほどひどいことをやり尽した松永弾正が当時も後世も一種の英傑として評判されているのは、この子供の見事な最後のおかげもあるのだ。  権力者は、いつどんな理由で殺されたり処刑されたりするかも知れない存在である。 古今東西その条件に変りはない。 権力者はもちろん一族もその覚悟を持たねばならぬ。 この覚悟のないものは権力者の資格のない人間だ。 日本におけるその心構えとは、従容たる、あるいは壮烈な死に方である。
 過去の日本の権力者はみんな完全とはいわないまでも、多かれすくなかれそれを持っていた。 もっとも駄目だったといわれる大正、昭和の政治家実業家にしても持っていた。 5.11、2.26のとき襲われた政治家でも、みんなそれほど不様な姿を見せてはいない。 戦後である、それが完全に消滅したのは。 金権万能と 「生命だけはお助け」 の平和主義と足のひっぱり合いの平等主義しかない社会風潮のせいであろう。 ロッキード事件をめぐる政治家の醜態ぶりはこの覚悟が微塵もないことを示している首をくくられるわけでもないのに病気入院したり、泣き回りわめき回ったりの権力亡者ぶりは何ということだ 金に目がくらんだ醜態だったと自決する高官、潔白なのに疑われるとはと憤死する高官が出るような雰囲気など全くない。
亡者どものいましめのためここに秀次に関する一例をあげておく。


父祖の霊前に恥じる心持て

 高野山に登った秀次は間もなく切腹を命ぜられた。 検使役は福島正則。 ときに秀次は27歳、さすがに静かに腹を切り、山本主膳以下18歳前後の小姓5人も同時に切腹殉死している。 ところでここでもう一人切腹した男がいた。 使者が来たときたまたま秀次の碁の相手をしていた東福寺の僧玄隆西堂である。 こういう場所へ来あわせたのも、よくよく深い因縁があるからだとして悠然として共に切腹したのだ。 かれは秀次の陰謀とやらに加担していたわけではない。 「ピーナツ」 などもちろんもらっていない。 みんなが切腹しなければならなくなった場所にいたということだけである。 そういう 「関係」 のため死んだのであり、それが日本人というものなのだ。 18歳前後の小姓たちも死ぬ必要はなかった。 かれらは秀次が成上りだから譜代の臣下でも何でもなかった。 小姓だから政治に参画していたわけでもない。 ただ彼らは関白という最高権力者の近臣として出世するだろうという未来を持っていた。 そういう可能性を持つ地位にあったという責任に殉じたのである。
 か。





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