「田中角栄」考
心の豊かさを捨てても
   経済性を優先する風潮を加速化した政治家



 長島茂雄が現役引退を表明したのは昭和49年10月。 その翌月に今太閤と呼ばれた田中角栄が金脈問題と参院選の敗北を理由に総理の座から退陣しました。
 今年は、田中退陣からちょうど30年になります。 今回は、善くも悪くも政界のヒーローだった彼にスポットを当てました。 ( 文中敬称略 )

 長引く経済不況に伴い、社会全体に閉塞感が漂う今のような時代は、どうしても田中角栄のような強烈なカリスマ性のある政治的リーダーを人々は求めてしまいます。 娘の田中眞紀子に根強い人気があるのも、彼女の小気味よい選挙演説に、人々が亡き父親の影を見るからでしょう。
 しかし一方で、田中角栄が作り上げたといってもいい金権体質、あるいは奇々怪々な永田町の論理は、いまだに国民と政治を隔絶する壁として存在しています。 田中退陣から三十年経った今日、政治の体質は基本的には何ら変わっていないといってもいいでしょう。 その悪しき土台を築き上げた田中角栄とはいったいどんな人物だったのかを考えてみたいと思います。

 田中角栄は、日本が戦後復興を果たし、経済成長が絶頂期を迎えた昭和47年7月7日、54歳の若さで内閣総理大臣の座に就きました。 長年続いた佐藤( 栄作 )内閣退陣後、その後継の座を福田赳夫と争ったいわゆる角福戦争を制しての首班指名でした。 それは戦後一貫して続いた自民党の保守本流の流れを変えるものでもありました。 それまでの日本の首相は、東大卒、大蔵官僚出身という、いわば日本のエリートコースを歩んできた人たちでした。 ところが田中は、故郷( 新潟県西山町 )の高等小学校を卒業後上京し、苦学のすえ中央工学校を卒業したというだけの、およそエリートとはかけ離れた経歴の持ち主だったのです。

 この流れを一変させたエネルギーの源がどこにあったのかを推察してみると、一つには長い冬の間を大雪に閉ざされてしまう貧しい故郷を経済的に豊かにしたいという強い郷土愛が考えられるでしょう。 さらに、明治以来の政権担当者のほとんどが薩長出身者で、しかもエリートだったということに対する反発心もあったかもしれません。 もちろん田中個人の上昇志向の強さ、あるいはハングリー精神が並大抵ではなかったということもあると思います。 いずれにしても、私が知っているそれまでの政治家の中ではずば抜けたエネルギーを感じた政治家でした。

 政権の座についてからは、金脈問題に揺れながらも党内の反対勢力を派閥の力( 数の論理 )で押さえ込んで乗り切り、一方ではすんなりと日中国交正常化を実現してしまいます。 同時に列島改造にも着手します。 退陣した後も派閥の中から首相を出すいわゆるキングメーカーとして、田中派( とその後継 )は隠然とした力を保持していました。 この “院政” は、彼が病で政界から引退する平成元年まで、実に15年も続いたのです。 その間、昭和51年にあのロッキード事件が発覚し、逮捕されたにもかかわらずです。

 彼が隠然とした力を発揮し続けることができた、その力の根源は何だったのでしょうか。 実弾とも言われる現金で派閥を拡大したこと、その現金を手にいれるための金脈、さらには人脈、そして情報などがあったでしょうが、そのすべてが全体像の見えない、暗い影で覆われたものでした。 問題は、田中以降、国民のほとんどが政治とはそういうものだと、変に認識してしまったことではないでしょうか。 政治というものにはどろどろしたものがついてまわるもの、きれいごとではすまない世界だということは、だれもがある程度は承知していたことです。 しかしそれが増幅されて、政治に清廉潔白を求めても所詮無理な話だという、一種のあきらめムードが定着してしまった。 そういうものが、今日の政治不信や信じられないほどの投票率の低さにつながってきているように思います。 田中角栄は、それらのきっかけをつくった人でもあったと思うのです。

 田中は、そうした政治の世界の暗部を極端に拡大した張本人でしたが、しかし彼にはそれほどの罪の意識はなかったのではないかと、私は思います。 ロッキード裁判で実刑判決を受けて保釈されたとき、例の右手をヒョイと挙げる得意のポーズをとりながら裁判所を出てきた姿は今も印象に残っています。 彼にしてみれば、賄賂もピーナッツもすべては政治活動に使ったのであって、私腹を肥やしたわけではない、ということでしょう。

 賄賂政治といえば、江戸中期の老中田沼意次がその代表格のように言われます。 しかし、彼の悪評は多分に反対勢力によって作られたもののようで、少なくも賄賂で私腹を肥やしたということはなかったようです。 みな政治資金として使っていたのだと。 田中角栄も田沼意次も、私腹を肥やすのではない、正規のルートではないけれども、得られた資金を自分の政治活動の場に活用するのだから、いいじゃないかという意識か。 もちろん時代も政治的背景もまったく違う二人ですが、どちらにしてもわれわれ庶民感覚とは大分のずれがあったことは間違いないでしょう。

 そのように金権政治の権化のようにいわれる田中角栄ですが、不思議な魅力をもっていたことも事実です。 彼の演説がそれです。 田中の演説は、ほかの日本の政治家のように、持って回った含みを持たせるような、あるいは原稿棒読みのような演説ではありませんでした。 言いたいことを真正面から語り、しかも実に分かりやすく、善悪はともかくとして、政策をだれの目にも見えるようにしました。 数字を裏付けにして、具体的に、堂々と話しました。 抑揚たっぷりに聴衆の気分を煽り立て、ここぞというところでは畳み掛けるような彼の演説は、まるで欧米人のそれのようでした。 その点ほかの政治家と比較すると際立っていました。
 学歴もなく、キャリア官僚でもない人間が権力の頂点に上り詰め、その自信に溢れた演説を聴いて、多くの国民が小気味よさを感じたのです。

 しかし、気がついてみれば、彼の政治手法はこれまでにない金権政治で、その代表的な “日本列島改造” 政策は文化的価値観まで一変させてしまいました。 自然を破壊して利便性を求め、その利便性がもたらす経済効果を最優先にしたのです。 今、そのつけがきているのです。 今日、物事を何でも金額に換算して判断する傾向がみられ、私などなんと心の貧しいことだろうかと歎いてみたりするのですが、そんな習慣を加速化させたのが田中政治ではなかったかと思います。

 田中角栄の退陣から30年経った今、ますます政治の質は落ちています。 残念ながら、日本にはまだ本当の意味での民主主義が定着していないといわざるを得ません。 その責任をひとり政治家に押しつけていいわけはありません。

 今、有権者ひとり一人の質と意識が問われているのです。