「田中角栄」 考
『戦後日本政治略史』
~田中政治の終焉~



 1993年12月17日、元首相にして刑事被告人の田中角栄が死去した。 首相経験者の逮捕は、昭電疑獄の芦田均についで、田中が日本憲政史上2人目となったが、両者には、日本政治にとってその影響力は比較できないほど大差があった。

 田中角栄、その名は、元首相吉田茂の 「ワンマン」 とともに、戦後日本政治の代名詞ともなったたが、田中は吉田とも異なる。

 それらは、 「田中政治」 ・ 「金権政治」 という、田中角栄の 「別名」 がものの見事に表現している。 そしてそのスケールは、日本の政治過程の中では比較できないほど大きかった。 その腐敗の構造もまた、何度も繰り返えされてきた疑惑・疑獄・汚職に比して大規模なものであった。

 それは、国民的批判により失脚した後も、田中は、絶えず政治に影響力を保持してきたのみならず、次々と首相の首を 「すげ替え」 などの絶大して絶対的の権力を振るったことにも見られる。 いうまでもなくその政治手法は、 「政治は力なり、力は数なり、数は金なり」 との論理であり、金と数の前に、近代国家の成立条件である民主主義と法治主義は、崩壊現象する見ら呈した。 その結果田中角栄は、周知のとおり、 「目白の闇将軍」 まで言われるようになった。

 逮捕・起訴、そして有罪( 実刑 )判決にもかかわらず田中角栄は、日本の政治舞台の君臨し続けたわけである。 田中自身、日本の政治の裏舞台で暗躍することで、裁判と国民的批判に抵抗するエネルギーをかもし出したのである。

 否、田中角栄の政治的力量は、表舞台を失脚してから遺憾なく発揮されたといわなければならない。 田中角栄が死去した今日、 “安っぽい” センチメンリズムに陥った一部マスコミは、田中政治の 「功罪」 を盛んに報道しているが、田中角栄の政治は、功少なくして、罪のみ大きいと断定できる。 それは、特定の人に対する功が、日本全体にとっては罪となったとさえいえる。

 その例外的 「功」 が、日中国交回復といわれる。 だがこれとて、田中内閣誕生までに、いわゆる 「日中国交回復3000万人署名」 に代表されるように、労働組合や野党、そして名ものない一般市民らが中心になって進めてきた国民的規模の運動が、数年にわたり展開され、当時日中国交回復が日本全体の流れになっていたという状況があった。

 田中角栄は、持ち前の政治手腕から、いち早く時代の流れを察知し、そうした国民運動の成果を摂取し、これを実行することにより、その指導力を国民に認識させるとともに、国際化が目前に迫っていた時代に乗り、外交面でも注目を引く一大政治ショーを敢行することにより、その政治人気を不動のものにしようとしたのである。

 そしてこの意図は、その直前の政権の佐藤内閣が、 「そつはないが、新鮮味もない」 と酷評され、ただ政権担当の期間が長かっただけで、沖縄返還以外、ほとんど政策らしい政策を展開しなかったが故、その名前の 「栄作」 から 「えいちゃん」 と呼ばれたいと自ら国民に語りかけたにもかかわらず、 「不作( 策 )」 と称されたという状況があったため、もののみごとに成功するところとなる。

 すなわち、日中国交回復を “てこ” に田中角栄は、厳しい学歴偏重社会の中で、小学校卒ながら、旧制一高・東大・大蔵省高級官僚( 主計局長 )と、これまでの多くの首相経験者が歩いてきた極め付きのエリートコース歩んできた福田赳夫と争い、それに勝利して首相になったという劇的展開から、 「今、太閤」 と持て囃されていた国民的人気を、政治家としての神髄である政策的実力に昇華させ、政治的力量を獲得してその政治基盤を確立しようとしたのである。

 つまり日中国交回復は、所詮、 「浮き草」 的人気にすぎない政治的人気から、政策的実力への変身を試みたパフォーマンスであったとえる。

 日中国交回復、それはまた、田中内閣誕生の際に、田中失脚後に 「クリーン三木」 とのキャチコピーで、田中金権批判をかわそうとした三木武夫が、田中角栄を自民党総裁として了承する時の田中に対する要求課題でもあった。 すなわち田中は、三木にこれを約束することにより首相になったのである。 この観点からいえば、田中内閣の日中国交回復政策に関しては、三木の功績も否定できない。 その三木内閣の時に田中角栄は、東京地検特捜部に逮捕され、三木首相の 「日本の政治の名誉にかけて真相を究明」 との政治姿勢の下で、起訴されたのであるから、歴史とは、――。

 日中国交回復は、このような時代的、そして政治的に背景があったが故に実現した政治課題であり、一人田中角栄の決断によって可能となった政策ではないのである。 したがってかかる観点を欠落された上で、それを田中角栄の功の部分とするのは、大いに問題である。

 ところで田中角栄には、基本的に国民的視点から、 「国民( 生活者 )」 に目をむけた日本全体の均衡的発展と、国民大多数の幸せのために政治を行っていくという、本来の政治家としての素質と、そのための政策が欠落していた。 その結果田中角栄は、 「金」 を政治手法の基礎として位置づけ続け、トップの座を射止めた後も、その政治姿勢を変更しないばかりか、それに執着しつづけることとなった。 そして皮肉にも、田中角栄は、権力を手に入れた 「金」 で、政治の表舞台から姿を消す羽目になった。

 戦後の保守権力が、総理のトップの座を手中の収めた後は、政権の基盤であるダーティな 「金」 については、吉田内閣時代の佐藤栄作や池田勇人のように、はたまた佐藤内閣時代の田中角栄の如く、それぞれが役割分担を決め、とにもかくにも総理は、建前的には 「金」 にはタッチしないという政治手法を確立していた。 それにより、その歴代の首相は、その疑惑の追及から逃れてきたのであるが、田中はこれを踏襲せずに、自らが 「金」 の担当まで行った。 こうした姿勢が、その後の田中逮捕に結びつくこととなる。

 さて、さしもの 「コンピューター付きブルドーザー」 の田中角栄も、田中金権批判に抗しきれず退陣を余儀なくされるが、 「三角大福」 戦争に勝利し、三大福をさしおいて首相になった田中の後に、三木・福田・大平がそれぞれ首相に就任するところとなるが、それは、誠に歴史的皮肉といえよう。

 また、三木、大平は、すでに他界しているが、戦後政治過程の権力争いのなかで最も激しかった 「角福戦争」 の一方の当事者である福田赳夫は、自らから 「今、黄門」 と称し、田中より年上ながら、日本人の平均寿命を越えて健在で、田中死亡に際して、 「言葉」 をマスコミに述べている事態をみるとき、これまたひとつの 「歴史のめぐり合わせ」 としかいいようがない。

 田中角栄は、国民的批判のみならず、国際的な非難に遭遇したにもかかわらず、失脚後も隠然、否、公然と政界に君臨し、多くの保守派政治家達は、刑事被告人田中角栄を 「神様」 と崇め、彼の政治権力( 「金」 )の傘のもとに結集した。 国会議員141 人が、いわゆる 「田中軍団」 を結成したことが、その集中的表現である。 「金」 は 「人」 をよび、人は力( 軍団 )を形成し、絶対的政治権力に成長したわけである。 数による日本政治の支配である。

 軍団の首領である田中角栄は、 「カゴにのる人かつぐ人、そのまたワラジを作る人というが、ワラジを作っているのが木曜クラブ( 田中派 )だ」 ( '84年3月10日田中派総会 )との発言の下、 「金」 と 「数」 を背景に、自ら逮捕させた( 逆指揮権を発動した )三木を政権の座から追放し( 「三木おろし」 )、あまつさえ政敵福田を自民党総裁選で蹴落として、 「角影内閣」 として大平内閣を作り上げ、裏( 影 )から内閣をリモコンするのであった。 まさに 「わらじ」 の効果は、絶大だった。

 これに飽き足らず田中軍団は、大平死去後に鈴木善幸を首相にして、ロッキード事件のもみ消しを図ることとなる。 '80年7月18日に衆議院議院運営委員会が、衆議院航空機輸入調査特別委員会をこれまでの 「全員一致原則」 を破ってまで採決により廃止したことに、それは端的にみることができる。 鈴木内閣誕生前日の'80年7月15日に、自民党総務会長の要職にいわゆるロッキード灰色高官の主要な一人である二階堂進を据えたことと相まって、鈴木内閣が 「直角内閣 」 といわれた所以である。

 この年( '80年 )の11月15日上越新幹線が開通するが、これは、田中による地元利益誘導型政治の総仕上げであり、そのため田中新幹線とまでいわれるのである。 国民の血と汗の結晶である税金の不公平な使途以外のなにものでもない。 これにより、田中地元は潤ったが、日本の他の多くの地域は取り残された。 田中自身は、いわゆるファミリー企業を屈指して、開発利権を手に入れる。 過疎対策という美名のもとでの自己の利益追及である。 血税の “不法” な獲得である。 田中にとっての一石二鳥、いや一石三鳥である。

 主権者である国民を代表し、国民の代表( 代弁 )者で構成する議会で、国民全体の幸福追及のために職務を遂行することから、 「代議士」 という言葉が登場したということが神話とすらなり、 「代議士」 とは、地元( 選挙地盤 )の、かつ自分の支持者の声えを代弁し、議会でその利権を獲得する者であるとの現実の公然化極めて顕著になるのである。

 ところで鈴木は後に、共和汚職に連座して国会に参考人として召喚され、事情を聞かれ 「善意の第三者」 との迷言を吐いて再び国民の前に登場するが、鈴木は、歴代の首相にはみられないほどの淡白さで、あっさりと政権の座を放棄、田中は、その後継内閣に中曾根康弘を指名する。

 かつて中曾根は、その所属する派閥の力量から、とても首相( 自民党総裁 )の座を射止めることはできないとの判断の下、盛んに米大統領型の首相公選制を主張したが、田中角栄の後押しで首相の地位についた途端、その政治姿勢を変節させ、それ以後中曾根の口からは、首相公選制は消えてなくなる。 首相公選制は、中曾根のトップを狙うための方便であったわけである。

 それはともかく、自民党の最大派閥にまで成長した田中派は、中曾根内閣の下で、重要な( 利権の多い )閣僚ポストの7つまで占拠する。 法務大臣の椅子まで、その手中に握るのである。

 検察庁の最高責任者である検事総長に対する指揮権をもつ法務大臣までをが、田中派が占めたわけである。 それはまた、田中角栄がもっとも恐れた東京地検特捜部に対する、事実上の挑戦でもあった。 実際に、そして公然と、指揮権を発動するかどうかは問題でなかった。 法務大臣を通して法務当局を把握し、その政治力で事実上の指揮権を発揮するという 「構図」 である。

  「官と政とのゆ着関係( 構造 )」 の一つでの表現である。 法務当局に対する政権政党の不当な圧力、それはかつて吉田内閣時代に、[造船疑獄」 に連座しながら、法務大臣の犬養健の指揮発動により逮捕を免れ、当時の検事総長佐藤藤佐をして衆議院決算委員会の証人喚問において、 「指揮権発動により捜査に支障を来した」 ( '53年9月6日 )と嘆かせている。

 法務=検察に対する政治権力の支配政策、それは、指揮発動により刑事責任を免れ、後に首相となった佐藤栄作が組閣した内閣の政権与党の自民党幹事長に就任した田中角栄の、後に起きた 「逮捕」 という屈辱的な出来事の痛恨の思いからでた戦術であった。

 中曾根政権は、こうしたことから 「田中曽根内閣」 といわれるが、それは、 「仕事師内閣」 との名のもとでの 「ロッキード潰し」 内閣以外のなにものでもなかった。 ロッキード灰色高官の加藤六月が入閣したことにも、それは端的に現れている。

 こうした刑事被告人田中角栄による日本政治の支配構造の進行に国民は、ただただ 「シラケル」 ばかりであり、民主主義と法治主義という近代国家の基本原則は、 「金と数」 の前に、 「風前の灯火」 どころか、 「幻想」 とすらなり、国民の政治不信は、極限状態に達した。

 '83年10月12日ロッキード事件丸紅ルートの判決公判で、田中角栄は受託収賄罪で懲役4年・追徴金1億円の判決を受けるところとなる。 これに対して田中は、 「判決は極めて遺憾」 として控訴するとともに、同日、自派議員を前に、 「総理総裁に適任なのはオレしかないと思っているやつがいる。 生意気なことをいうな。 総理総裁なんて帽子なんだ 」 といってのけた。 田中支配の集中的表現である。

 日本の総理大臣は、田中角栄の飾りにすぎなかったという驚愕すべき現象の露呈そのものである。 田中角栄の現実の政治的実力が、上の言葉に端的に表現されている。 そしてそれは、翌'84 年1月1日に目白の田中私邸に年始に訪れた政・財人をはじめ、その数550人に達したことで証明された。 田中 「裏権力」 の、いわば絶頂期である。

 かかる政治構造の下で行われた'93年12月18日の衆議院議員総選挙では、その投票率は69.9%まで低下して、戦後最低を記録するところとなる。 総選挙の後組閣された第2次中曾根内閣は、さすがに国民の目を意識して、 「角影」 絶つと声明せざるを得なかった。

 その田中角栄の政治力にも陰りがでることとなる。 それは歴史的必然である。 世代交代は、時の流れとともに忍び寄るものである。 望むと望まざるにかかわらず。

 かつて田中角栄が、長期政権として 「最長不倒距離」 を記録したが、新聞記者が抗議の意思をもって全員退室した中で、新聞嫌いの真骨頂を如何なく発揮して、ただひとりテレビに向かって退陣表明をした佐藤栄作の後継者として、佐藤の意思に反して 「金と数」 で総理総裁の椅子を射止めたように、時には劇的に 。

 '85年1月29日田中角栄は、田中派1・2年生議員の集まりで、 「( 発足の動きを見せていた竹下登の創生会に )入りたいなら入れ、太政官制度発足以来、県議出身の首相はいない( 竹下は県議出身 )」 と発言し、竹下にあからさまな敵意を露にし、阻止しようとする。

 しかし、流れは押しとどめることはできず、佐藤の意図を潰して、佐藤派を田中派に衣替えして首相になったように、竹下は、田中派を事実上竹下派に変質させることに成功するのであった。 その手法は、田中のそれと大差なかった。 つまり、 「金と数の論理」 である。

 その竹下も、首相になるための錬金術の結果、折角手にした首相の座を田中同様に、疑惑発覚により、手放さなければならない運命になるのである。 リクルート疑惑の発生である。 '87年6月18日付 『 朝日新聞 』 は、横浜支局の3ヵ月の取材の結果として、川崎市助役の未公開株売買をスクープする。 政・官・罪のトライアングル( 鉄の三角形 )の露呈である。

 この疑惑で関与が明らかになったのは、首相竹下登、蔵相宮澤喜一、自民党幹事長安倍普太郎、元首相中曾根康弘、自民党の派閥首領渡辺美智雄のほかロッキード灰色高官の加藤六月、加藤紘一らの政権政党の幹部に止まらず、社会党の上田卓三、民社党委員長の塚本三郎までに及んでいた。 程度の差こそあれ、共産党を除くすべての政党が汚職に連座したのである。 構造的汚職から、複合的汚職への汚職構造の拡大再編成であった。 同時にそれは、55年体制の疲弊現象の現れであり、与野党を問わない 「金」 による支配政治の終局の場面を意味していた。

 かかる疑惑により竹下内閣は崩壊し、竹下登自身は、政治家としての師匠である田中と同じ運命を辿るところとなる。 竹下( 旧田中 )派支配構造の下で、逮捕と刑事被告人の汚名だけは免れたが 。 そして竹下の元秘書青木伊平が自殺する。 かつて田中角栄の秘書の笠原正則が自殺したように 。

 竹下内閣以後、田中金権政治を継承した自民党最大派閥の竹下派=経世会は、国民の批判と自民党内の派閥力学から、それに人材難が相まって、総理を出すことができなくなる。 その代わり、裏で政権を操ることになるが、それは、まさに田中金権政治の手法そのものであった。 宇野内閣、海部内閣、宮澤内閣と経世会との関係、すなわち権力の二重構造である。 かつての田中派同様竹下登は、金丸信や小沢一郎とともに、 「キングメーカー」 としての君臨したのである( いわゆる 「金・竹・小支配」 )。

 しかも、政権を後ろで操るひとびとは、あえて公的な地位に就かないのである。 公職に就任しないで政権をリモコンする構造は、まさに 「支配すれど責任をとらず」 という、無責任体制が日本の政治の中に確立したことを意味した。 法律( 刑法 )上の職務権限が形式的にないことを口実に、刑事責任の追及を逃れることかできる構造の確立である。 実質的には、形式的な権限を有する首相や大臣の首を 「すげ替える」 ほどの権力を有する者がてある。

 このような世紀末的な政治情勢は、良識ある国民ばかりでなく、当然のことながら国際的非難を浴びることとなる。

 その結果世の中、政治改革ばやりとなった。 竹下の後政権の座についた宇野宗佑は、 「天に祈り、地に伏して政治改革 」 をと叫んだが、女性スキャンダルであえなく倒壊、続く海部内閣は、かつて田中派結成の時に乾杯の音頭をとった、当時自民党幹事長に就任していた小沢一郎により完全に支配され、政治改革を単なる選挙制度の問題にすり替え、55年体制確立後に改憲を企てた鳩山内閣が意図した 「小選挙区制」 の導入をはかった。

 田中を逮捕させた三木内閣の官房長官として三木武夫を支え、三木を師匠を仰いだ海部俊樹は、三木内閣の政治姿勢と訣別し、田中政治を承継した小沢に屈伏して、腐敗、そして諸悪の根源である企業献金の廃止を基本とする政治改革の本質を意図的に隠蔽するために、選挙制度があたかも政治改革の眼目であるかのように装ったのである。 諸悪の根源を、トライアングルを基礎構造とする企業献金から、現行選挙区制度に巧妙に転換したわけである。 あからさまな海部の変身であった。 それを知識人と称する一部のひとびをが護し、多くのマスコミが後押した。 政治腐敗と選挙制度とは、本来無縁のものであるにもかかわらず 。

 金権腐敗と女性問題との違いはあったが、いずれもスキャンダルの後に、起死回生策として、またピンチヒッターとして登場したことでは、三木内閣と海部内閣は、少数派閥を基盤とする政権という局面とともに共通していたが、その政治姿勢は、あまりにも異なり、国民の海部内閣に対する期待は、水泡にきっしたのである。

 鳩山の小選挙区制は、あまりにも自民党に有利な制度であったがために、 「ハトマンダー」 といわれ、国民的反対に遭遇して挫折した。 鳩山は、その回顧録で、 「鳩山内閣の最大の失政」 と嘆いたが、反省という言葉は、政治家には通用しない。 田中角栄もまた小選挙区制の導入を、その政治使命と考えるのである。 しかし、再び国民の反対で、それを断念するところとなる。

 それを海部内閣は、またもや意図したわけである。 比例区を加味することで少々形を変えてはいるが、本質的には小選挙区制であることに変わりはない。 小選挙区制、つまりそれは、改憲を党是とする自民党と田中角栄の政治目標だったのである。

 海部内閣の時代には、度重なる疑獄の発生、とどまるところを知らない汚職の連続で国民の政治不信は、すでに極限状態を越えていた。 海部内閣提出のいわゆる政治改革法案が廃案の憂き目になったとき、海部俊樹は、 「重大の決意」 ( 衆議院の解散 )との言葉を発して、その政治姿勢をはじめて自らの意思で国民に公表したが、これが命取りになり、その続投の願望( 野望 )は消え失せた。

 そもそも政権基盤がなく、しかも思いもかけない出来事が背景にあって成立した政権は、続投を望んだ時から堕落する。 この命題を、海部内閣はものの見事に証明することとなった。 問題を醸し出した政権党の多数派に迎合するからである。

 国民に目をむけ、政権を投げ出す覚悟で、国民が期待する腐敗防止の諸政策実行のために強力な政治指導力を発揮すれば別であるが。 そうした政治姿勢と実行力が備わっておれば、たとえその政策が途中で挫折したとしても、その内閣の名は、日本の歴史の中にさん然として残るであろう。

 すなわち海部俊樹は、リモコンしてきた裏の権力により葬られたのである。 海部が自立しようとしたからであり、 「傀儡政権」 のそれは当然の結末であった。 国民に目を向けず、裏権力の言いなりになった結果である。

 続いて登場したのが、リクルート疑惑追及の過程で、 「秘書が、秘書が 」 を国会で連発して拙劣なる言い逃れをし、その上、衆議院リクルート特別委員会での江副証言との食い違いが判明するばかりか、それを取り繕ったため、国会の答弁も二転三転した結果、国民の不信を買い、大蔵大臣を辞任する憂き目になった宮澤喜一であった。 しかも、竹下派の実力者であった小沢一郎の面接試験を受けてである。

 疑惑の責任をとって大臣を辞任したにもかかわらず、その反省すらせず、また真相を解明するどころか、それを隠蔽した上で、裏権力の支持で念願の首相になった宮澤喜一に、真の政治改革の手腕と熱意があるわけがない。 宮澤内閣もまたリモコンされ、自民党の永久政権を維持する目的で小選挙区制の導入を図るのである。

 そして、 「政治改革をやります」 、 「嘘をつきません」 とテレビで見栄を切った( まやかしの )政治改革の実現が不可能となり、 「嘘をついた」 としてマスコミと国民の指弾に遭遇して、呆気なく崩壊する。 それは、確たる政治信念とリーダーシップなき政権の当然の末路であった。

 衆議院は、実に大平内閣以来13年振りに内閣不信任案を可決した。 いうまでもなくその背景には、金丸逮捕が引き金となり、竹下派が急速に求心力を失い、派内の権力争いが健在化して、内部分裂が起きるという劇的な展開があった。

 自民党は分裂し、40年近くも続いた55年体制が音を立て崩壊したのである。 宮澤喜一は、総辞職の代わりに衆議院を解散した。 「責任なき政治」 の必然的の選択であるが、総選挙で、当然のことながら、自民党は惨敗し、政権交代が現実のものとなった。

 その結果、念願の一党支配が終焉し、'47年6月の社会党片山内閣以来の連立政権が樹立された。 それは、 「一見」 21世紀に向けての新しい日本の形成とも思われた。 そして、多くの国民は期待した。 否、期待せずにはいられなかった。

 細川政権の誕生である。 「今、太閤」 が確立した金権政治体制が批判され、生まれながらの殿様である細川に、日本の未来が委ねられたといっても決して過言ではなかった。

  「金権・嘘つき・二重権力政権」 から、清新な 「連立政権」 による 「国民( 生活者 )に目を向けた」 政治が展開されることを国民は願った。 細川は、パフォーマンスでそれに答えた。 細川内閣の支持率は、各社軒並み70%を越え、田中を抜いて戦後トップになった。

 しかし、である。 自民党政治の崩壊、それは予期せぬ出来事であり、劇的な政治ショーともいえたが故に、多くのひとびとは、その本質を見失った。 マスコミが、そのような状況を意図的に煽った。

 驚くべきことに多くのマスコミは、自民党を脱退し新党を結成した政治集団を改革の志士としてもてはやした。 そうした政治家をテレビは意図的に映像化し、美化した。 テレビよる情報操作である。 活字離れが深刻に進行している今日、かつてのマスコミ= 新聞という構図は、テレビに取って変わられて久しいが、一部テレビ局の幹部は、傲慢の極に達し、連立政権はテレビが作ったと思うようになっていた。 テレビへの出演が、当選の一つの条件にすらなった。

 しかも、細川政権を支えた中核集団は、金権・腐敗政治の代名詞となった、あの田中派のひとびとである。 その上、かつて疑惑で辞任した議員の、後の選挙での当選を 「禊ぎ」 と強弁する自民党を激しく非難した自民党時代の野党や、その支持母体( 労組 )の幹部( ボス )は、自民党を脱退したことをもって彼らの禊ぎとし、金権・腐敗の責任追及を放棄するばかりか、かれらと連携した。 あまつさえ、これに反対する候補者を 「選別」 と称して落選させた。

 金権・腐敗政治を確立した田中角栄を神様を崇め、その傘下に結集して甘い汁を吸ったひとびとが、別言すれば、田中政治の中核部隊として権力を振るったひとびとが、今度は、自民党の金権体質を批判する。 何の反省もなく 。 あたかも自分たちが、国民の政治不信の原点である田中流金権・腐敗政治とは無縁であるかのように、政治改革を主張している。 それをマスコミは、批判しないばかりか、持て囃しているのである。

 すなわち、 「嘘つき内閣」 の一員として、その責任を連帯して負うべき立場の、しかも大蔵大臣の重責にありながら、その職務を長期間放棄して、派閥分裂抗争に明け暮れた人が党首であり、かつ二重権力構造で、その政治権力を遺憾なく発揮し、宮澤内閣を事実上作った政治家がリードする政党が、 「政治改革の騎士」 として、みずから名乗る。 これに無批判的にマスコミは追従するという構造である。

 国会の証人喚問で、 「ただのお遣いにすぎなく、ウイスキーのお代わりをしていたので、なにも知りません 」 と証言し、議員のみならず、国民を愚弄したばかりか、なんら疑惑の解明を行わない政治家である。 彼は、その後に明白になった疑惑をも隠蔽するが、疑惑隠しの点では、それはそれなりに整合性をもっていた。 細川内閣は、その彼を、証人喚問の要求を無視してまで擁護することで、それはものの見事に立証される。

 すなわち、責任なき二重政治構造は、55年体制の崩壊後も、厳然として生き続けているわけである。

 政権誕生時の記者会見で、 「'93年内に政治改革ができない場合は、政治責任を取る」 との見栄をきった細川首相は、参議院議員時代、田中角栄の派閥に属し、その金権体質の中で政治家として成長した。 そしてこれらの事実の総括をしないままに 。 その上、細川自身の佐川疑惑の国会の釈明も二転三転する。 かつての自民党内閣と同じように。

 しかも、彼が意図する政治改革の年内成立を断念せざる得なくなっても、その責任については、積極的に言及しない。 嘘つき政権崩壊後に、政権の座について細川首相もまた、嘘をついたこととなる。 かつて、あれほど 「嘘つき」 非難したマスコミは 、それを追及すらしない。

 なんとも奇妙にして、 「世にも不思議」 な現象が、意図的に醸し出されている今日この頃である。

 こうした事実の発生は、歴史の現実を客観的、実証的、かつ冷静に見ないところから導き出される結論である。 換言すれば、昨今の政治状況は、歴史を考察し、歴史を学ばないところからかもし出されるものである。

 歴史とは、問題発見の巨大なる装置であるとともに、現在を分析し、将来を展望する際の羅針盤だからである。

 われわれは、21世紀が目前に迫っている今日こそ、一部マスコミに代表される歴史無視・軽視の風潮を乗り越え、その問題点と真実を発見し、的確に解析した上で、将来日本が向けて目指すべき指針を確立する必要性に迫られているといわなければならない。