「田中角栄」考
田中元首相没後5年
( 98年12月16日 )





      ◆激動政局の軌跡◆
1972年7月 田中角栄内閣総理大臣就任
( 昭和47年 )
   9月 日中国交正常化
 74年11月 田中首相退陣を表明
 76年7月 ロッキード事件。 角栄ら逮捕
 89年10月 田中、政界を引退
 93年6月 衆院で宮沢内閣不信任案可決、
      自民分裂。 自民離党の武村正義
      ら新党さきがけ、翌月、小沢一
      郎、羽田孜ら新生党結成
   7月 総選挙。 自民過半数割れ
   8月 新生、日本新、社会など8会派
      連立の細川護煕内閣発足
   12月 角栄死去
 94年4月 細川内閣総辞職、羽田内閣発足
      も社会、さきがけが与党離脱
   6月 羽田内閣総辞職。 自社さ3党連
      立の村山富市内閣発足
   12月 新進党結党。 新生、日本新、公
      明、民社など参加
 95年7月 参院選で新進党躍進、自社敗北
 96年1月 村山内閣総辞職。 自社さ連立の
      橋本竜太郎内閣発足
   9月 さきがけの菅直人、鳩山由紀夫
      ら民主党を結党。 臨時国会冒頭、
      橋本首相、衆院を解散
   10月 総選挙。 自民第1党となるも過
      半数に満たず。 新進は敗北
   11月 第2次橋本内閣発足。 社さ閣外
      協力に
   12月 羽田元首相、新進を離党、太陽
      党を結党
 97年6月 細川元首相、新進を離党、フロ
      ムファイブ結成
   11月 公明、新進への合流方針見直し。 
      参院選での独自戦を決定
   12月 新進解党
 98年1月 新進分党で自由、新党平和、改
      革クラブなど6党旗揚げ
   4月 野党大合同の新 「民主党」 結党。 
      党首に菅直人
   5月 社さが与党離脱
   7月 参院選。 自民惨敗、民主躍進。 
      橋本内閣総辞職。 小渕恵三内閣
      発足
   12月 自民、自由両党が連立政権発足
      で合意
 雪国新潟の貧しい境遇から身を起こし、首相にまで上り詰めた田中角栄。 その人生はまさに、焼け跡から世界有数の経済大国にのし上がった戦後日本そのものだった。 しかし、元首相の死と歩調を合わせるように田中の 「弟子」 たちによって政界の激動が始まり、不安定な政治を補ってきた経済も行き詰まった。 閉塞の時代に強力な田中的リーダーシップを望む声がある一方で、金権に象徴される政治手法はいまだに国民と永田町を隔てる大きな壁としてあり続ける。 きょう16日は命日。 元首相死去後の5年間とはどのような時代だったのか。 田中の残した課題を検証するとともに、懐刀と呼ばれた後藤田正晴、政治評論家の内田健三、元秘書の早坂茂三、作家として実像に迫った佐木隆三の4人に聞いた。 ( 敬称略 )


公共事業王国に陰り
依存体質の脱却が課題

◆開発型政治◆
  「全総( 全国総合開発計画 )はこれで最後。 役割は終わりました」
 今年3月。 五次に当たる全総案の了承後、会見に臨んだ下河辺淳・国土審議会会長はこう言い切った。
 田中角栄の 「日本列島改造論」 の影響を色濃く受け 「国土の均衡ある発展」 を掲げた全総。 終結宣言は、日本の地域開発が大きな転換期を迎えたことを意味していた。
  「田中的なるもの」 を語るとき、欠かせないキーワードは開発型政治だろう。 田中と建設省との密接な関係は、戦後間もない1950年前後に始まった。
 52年の国土総合開発法改正と電源開発促進法制定で、全国の電源開発体系を掌握し、52-53年には道路三法を制定した。
 経済成長の時代にフィットした列島改造論は 「本人の思惑とは逆に」 ( 下河辺 )土地ブームを呼び、苫東やむつ小川原開発などの巨大開発構想を生んだ。
 だがバブル崩壊は過剰な開発に冷水を浴びせ、環境問題への関心の高まりを追い風に、公共事業のあり方そのものが問われる時代ともなった。
 田中型開発政治がもたらした 「遺産」 は何なのか。 井上孝前参院議員は田中の功績として 「地方に光を当てたこと 」 を挙げる。 「経済効率のみを重視していたら、裏日本といわれた地域のインフラ整備はもっと遅れた」 とも。 本県の交通網整備は田中が政治の階段を上るのに歩調を合わせて進み、八四年度には高速道路延長が全国一位に達した( 日本道路公団調べ )。
 負の遺産のひとつは、地方の公共事業依存体質を助長したことだろう。
 本県出身の建設官僚は言う。 「新潟県は田中さんの存在に慣れて、今も自分から動こうとしない」。 平山知事は 「インフラを生かすため、環日本海政策がある」 としつつ、 「中山間地では実際に公共事業に頼らねばならない。 その代わりはあるのか」 と地方のジレンマを訴える。
 だが、日本を覆う金融システム転換の波は、地方にも容赦ない。 旧越山会系の建設業者、吉原組( 本社長岡市 )の経営行き詰まりは、本県経済も公共事業偏重から体質改善を迫られている現実を突きつけた。
 下河辺は言う。 「土地ブーム、バブルが崩壊したいまこそ、地域の人が暮らしやすいシステム、本当の列島改造を考えるべきではないのか」。 模索の時期が来ていることは確かだ。


今太閤から闇将軍へ。 波乱に満ちた生涯ゆえに、人々の記憶に深く刻まれる田中角栄元首相。 今年4月開館した田中記念館にも、元首相をしのぶ人たちが訪れる=12月7日、刈羽西山町
癒着がおごり招く
新たな関係づくりが焦点

◆政と官◆
 11月19日の自自連立合意。 小沢一郎自由党党首は、自民党に突きつけた政策協定のトップに、政府委員の廃止など政官関係の抜本的見直しを掲げた。
 それに先立つ臨時国会。 「政策新人類」 と言われる若手政治家らは大蔵省を外す形で法案をまとめた。
 田中の築き上げた 「政と官の蜜月」 が、いま大きく揺れようとしている。
 官僚を自在に使いこなした田中は、官を政治の世界に引き寄せた。 だがそれは 「癒着」 、さらには官のおごりをも呼んだ。
 田中は首相退陣後、権力の二重構造を形作り、内閣の存在感は弱まることになった。 「これが、官僚が与党と直接結びついたり、政治家の担うべき政策判断にまで踏み込んだりする契機となった。 その意味で田中さんの罪は重い」 と元大蔵官僚で政策シンクタンク 「構想日本」 を主宰する加藤秀樹氏。 そのたどり着いた先が一連の官僚不祥事でもあった。
 しかし、自民単独政権崩壊を機に、新しい状況が生まれる。 政党間の政策協議が表舞台で行われ、それが有無を言わせない形で、行政へおろされる方式が日常化した。
  「官に対する政の相対的な力は格段に強くなった」 と元総務庁事務次官・増島俊之中央大学教授。
 その変化は、 「官」 を取り込んだ田中に対し、逆に突き放す方向へ進んでいるように見える。 だが、それについては 「政治家と官僚は船長とこぎ手の関係。 切り離すことは出来ない」 ( 増島教授 )とも指摘する。 政と官の新しい姿はまだ見えきっていない。
 金融対策論議の波を乗り越えた谷垣禎一大蔵政務次官はいま、こんな予感にとらわれている。
  「政治と行政の関係をどのようにとらえるか。 これからは、それが政治グループ間の大きな争点として浮上してくるんじゃないか」


変わらぬ選挙区事情
有権者の意識改革も必要

◆政治とカネ◆
  「国会活動は票にならないんだ。 当選するには今でも、橋やトンネルを造り、歌謡ショーを開き、選挙民にこたえなければ駄目。 力が10あるとすれば、6はカネ集め、3は選挙だ。 1は国会活動」。 県関係国会議員の一人は、旧態依然とした実情を打ち明ける。
 田中元首相が死去した5年前の1993( 平成5 )年、政治改革を掲げた非自民の細川護煕連立政権が誕生。 38年間続いた自民党単独政権を崩壊に追いやった。 その原点は、ロッキード、リクルート、佐川急便など、田中とその末えいたちがかかわるスキャンダルであり、 「政治とカネ」 の問題だった。
 しかし、5年の歳月は、小選挙区制を柱とする制度改革本来の目的を覆い隠そうとしている。
  「数は力」 「力はカネ」 を体現した田中。 今も毎年盆、暮れになると党と派閥から百万円単位のもち代が配られるが、県関係国会議員は 「田中さんは一けた違っていた。 かばんを持っていったら 『これでは入らない』 と言われたことがあった」 と当時を振り返る。
数多くの 「田中本」 が、人間・田中角栄を浮き彫りにする。 際立つ個性ゆえにか、それとも彼の生きた時代への郷愁からか、その出版は今も絶えることがない
 小選挙区制とともに 「政治改革」 との旗印の下に導入された政党助成法、改正政治資金規正法、改正公職選挙法は、そうした派閥レベルのカネの流れにブレーキをかけ、政治家の収入の道をも狭めた。
 しかし、政治家が自らの存亡を掛ける選挙区の事情は変わらない。
  「一人しか当選できない小選挙区では、後援会だけでなく、目に見えぬ多数も相手にしなければならない」 と県関係議員の秘書。 「年賀状は駄目でも、寒中見舞いを出さなければならない。 予算が決まれば、一時間でも早く地元へ教えるためにファクスや速達で送る。 こうした費用だけでもバカにならない」 と指摘する。
 ”入り”は細り、”出”は膨らむ。 「いきおいパーティー収入などに頼らざるを得ない」 ( 県関係国会議員 )。 97年のパーティー収入は、本県の自民党衆院議員だけで1億5千万円を超えている。
 そして政治家とカネをめぐる不正は後を絶たない。 今年10月、中島洋次郎衆院議員が政党助成金の流用で逮捕、菊池福治郎議員( 宮城6区 )らは選挙違反で失職した。
 市民運動全国センターの須田春海代表は 「サービスを与える政治家・政党と、それを受け取る有権者の意識を変えない限り、本当の改革につながらない」 と強調。 請負型政治からの脱皮につながる制度改正を訴える。
 一方、小選挙区は、選挙を政党本位、政策の争いに変え、政権交代可能な二大勢力の確立を可能にするというのが、うたい文句でもあった。
 しかし、政権の交代は 「連立」 の組み替えで行われているにすぎない。 初の小選挙区選挙となった96年衆院選では、自民が単独過半数を割ったにもかかわらず、新進党議員らが相次いで自民党に入党、単独政権に道を開いた。 この間、野党は離合集散を繰り返し、先の臨時国会では法案ごとに自民党との組み合わせが変わるなど、永田町の主導権争いだけが目立っている。
 東北大法学部の川人貞史教授( 政治学 )は 「二大政党制を実現させるという小選挙区制は日本の風土に合っていない 」 としたうえで 「野党は、もう一つの選択肢として結束することができない。 すぐに政局に目が行き、何を仕掛けるかという発想しか持てない」 と指摘する。
  「結局、政治改革は選挙制度改革にわい小化されてしまった」 ( 須田代表 )。 「改革」 は、政治家はもちろん、有権者の意識をどれだけ変えたのだろうか。 田中の 「負の遺産」 終えんへの道のりは遠い。





政治評論家 内田 健三氏( 76 )
うちだ・けんぞう
 1922年熊本県生まれ。 東京大卒。 共同通信政治部長、論説委員長など歴任。 退社後法政大学、東海大学などで教べん。 政治改革推進協議会( 民間政治臨調 )会長代理。 新構想研究会副会長。 著書に 「現代日本の保守政治」 ( 岩波新書 )など。
「落日日本」 の象徴でもあった 色濃く残る政治体質
 新システムを構築できず

 言われるように、田中はまさに、上り列車の時代のヒーローだった。 地方から中央へという流れだけでなく、戦後の日本全体が高みを目指し駆け上がる時代だった。
 その終着駅に立っていた田中には、時代に対する毀誉褒貶きよほうへんが転嫁され集中する。 だからこその輝きであり、悲劇があった。
 首相就任前年( 1971年 )にドルショック、在任中( 73年 )には第一次オイルショック。 それは戦後という時代の、終わりの始まりでもあった。
 そして、時代が決定的に変わるのが、中曽根政権の時代だ。 田中の倒れた一九八五年に、国際経済の転換点となったプラザ合意がある。 国際政治ではゴルバチョフが登場し、冷戦は終結へ向かう。
 中曽根は、 「戦後政治の総決算」 を掲げ、この時代に対応する構造改革を提唱するが、国鉄民営化をのぞけば成果は得られないままだった。
 バブルは崩壊。 リクルート、佐川と不祥事が続くなかで、政治は混迷を続け、時代に取り残されていく。 それが限界に達したのが、田中死去の九三年、政治改革を掲げた再編劇だった。
 栄光を極めた後の田中が、ぼろぼろになりながらも政権支配に執念を燃やしつつ病に倒れ、世を去った経過が時代の節目と重なるのは、あまりにも象徴的だ。 田中は上り坂の日本だけでなく、その落日をも象徴していたのかもしれない。
 それでは、 「田中以後」 の5年、日本は時代に適合する政治のシステムを手に入れたのだろうか。
 残念ながらそうとは言えない。 94年1月、細川首相、河野自民党総裁の会談で合意した選挙制度の改革は、足して2で割る中途半端なものに終わった。
 政治と金の問題も前よりよくなったとはいえ、制度的不十分さが残っている。 開発型行政にしても、限界といわれながら、景気対策といえば相変わらずの従来型公共事業が幅を利かす。 政策新人類といわれる人たちも登場したが、リーダーとしてはまだ力不足は否めない。
 非自民連立政権がわずか10ヵ月で幕を閉じたことで、自民も非自民も変革仕切れなかった。
 一貫して改革を唱える小沢一郎氏にしても、政策は別にして、その政治体質は、 「田中的=日本的」 なものだし、それと手を結ぼうとしている自民党にはより以上、色濃く残っている。
 そしてなにより日本人の心そのものに、ぬぐいがたくそれはある。 だからこそ、 「田中的なもの」 が時に郷愁とともに思い起こされるのだろう。 「田中」 は死んではいないのかもしれない。





作家 佐木 隆三氏( 61 )
さき・りゅうぞう
 1937( 昭和12 )年、朝鮮生まれ。 56年、福岡県で高校卒業後、八幡製鉄所入社。 退職し76年 「復讐するは我にあり」 で直木賞を受賞。 同年、田中元首相の人間像を探った 「越山 田中角栄」 を週刊誌に連載。 91年 「身分帳」 で伊藤整文学賞。
55年体制崩壊しても
何も変わっていない

 最初に旧新潟3区に行ったのは1976( 昭和51 )年の秋から冬。 田中角栄がロッキード事件で逮捕されて、 「どういうことだったんだろう」 という好奇心でせっせと通った。
 というのも、日本という学歴社会の中で高等小卒の田中角栄がのし上がり、総理大臣になる 。 それが面白い。 だから多くの人が拍手で迎えた。 3区だけでなく日本全体の庶民が、保守や革新を超えて、だった。 存在自体が愉快だった。
 3区を歩いて一番びっくりしたのが消雪パイプ。 かなり奥地にもある。 角栄のおかげかどうか工場もできた。 出稼ぎに行かなければならなかった人々は、戦後の経済成長の中に地元の政治家の姿をストレートに見る。 利益誘導でも顕著に尽くした人であり、いろいろな思いが角栄に対してあったというのは、ごく自然なことだと思う。 そういう彼を押し上げる熱気というのは、3区を歩けば、十分ではないが、分かった。
 自民党長期政権がもたらしたゆがみの責任が田中角栄であるといえば、その部分は大きいと思う。
 政治の世界で55年体制は崩壊したが何も起こらなかった。 ( 表舞台にいるのは )全部角栄の子分。 基本的に何も変わっていない。
 その一方で、例えば( 55年体制の象徴としての )沖縄の基地問題は何も解決していない。 角栄の政治力があったら、と思う。 橋本( 龍太郎前首相 )さんは沖縄にゲタを預けただけ。 普天間の代替地は国政レベルで、総理が必死になって考えなければならない問題だ。
 いま小説に書きたい政治家はいません。 スケールが小さくて、ミスが発覚しない装置の範囲内でやっているような感じだ。
 ( 取材後も )六日町にはよく行くが、開発が進んで豊かになった。 しかし今の政治家は、本当に政治がやるべきことをやっているのだろうか。 近年の投票率の低下傾向が、そのことを表しているのではないか。
 もっと 「角栄が日本人の心を金まみれにした」 と( 著作の中で )批判してもよかった。 でも、たかが政治家に金まみれにされるほど日本人はヤワじゃないから。





元副総理 後藤田 正晴氏( 84 )
ごとうだ・まさはる
 1914年、徳島県生まれ。 東京大卒。 田中元首相に懇請され、72年に警察庁長官を経て田中内閣の官房副長官( 事務担当 )に就任。 76年衆院初当選。 中曽根内閣で官房長官、宮沢内閣で副総理兼法相などを務めた。 96年、政界を引退。
生きている田中さんのDNA 原点に庶民のにおい
功罪相半ば、巨大な存在

■田中元首相の死去から5年。 田中元首相の生きた時代と、政治の姿はどう変わったか。
  「めまぐるしい5年間だった。 しかし、移り変わりは激しいけれども、日本の政治の基本は変わっていないのではないかというのが率直な印象だ」
■政治の激変を生んだのが 「政治改革」。 原点はロッキード事件に象徴される金権政治ではなかったか。
  「すべてが田中政治のせいだというのは行き過ぎだが、責任がないとはいえない。 田中さんの流れを引き継いだのが竹下政治。 その竹下内閣時代にリクルート事件が起きた。 政治に商業主義の弊害が出てきた。 リクルートはロッキードよりたちが悪い。 新型の汚職だった」
■1989年に、政治改革のための後藤田ビジョンを出すなど改革に取り組んだ。 その経緯を。
  「6ヵ月ぐらい議論をやった。 その間も( リクルートで )次から次へとつかまる。 宮沢さんが大蔵大臣を辞任。 竹下さんや中曽根さんまでが寄付を受けているという。 出発点は腐敗防止だったが、元をたどれば四十年間の一党長期政権。 政権交代可能なシステムが必要だとなり、小選挙区などを採用しようとなった。 政治資金は3分の1を国が出すことにし、残る3分の1ずつを個人と党が集める仕組みに変えようとなった」
■改革の結果は。
  「時間がたつとリクルートは忘れ去られ、党の命運にかかわるとか、選挙で助からないとかで、個々の代議士からも反対が出る。 村山内閣で区割り法ができるまでに6年かかった。 今も商業主義の弊害は完全になくなっていない」
■一方で、田中元首相の下で育った田中チルドレンが政治を支えている。
  「田中さんのDNAは生きている。 それは田中さんに人を見る目があり、それだけの人を引きつける吸引力があったということ。 世間は金だというが、全く間違い。 ぼくも資金援助は受けた。 しかし( 旧田中派は )あれだけの大所帯だから、一人当たりでいえば、もらう金は他の派閥より少ないよ」
■この5年間の政局を振り返ってほしい。
  「政党が収れんしていく一つの過程だ。 細川さんはもっとがんばるべきだったが、われわれ庶民と違って執着がなさすぎた。 羽田内閣が衆院を解散せずに総辞職したのは、羽田君、小沢君の重大な判断ミスだったと思う」
■そして自社さ連立から橋本政権を経て、自自連立へと続く。
  「自民党にも危機感があっただろうが、社会党との連立にはとまどった。 組閣の前に村山君から 『総理に擬せられている。 意見を聞かせてほしい』 と電話があって、 『憲法と自衛隊はどうする』 と聞くと 『理屈を言っても始まらない』 と言う。 それなら仕方がないと思った」
■今回の自自連立は。
  「追い込まれた同士が手を組んだ。 しかし、古い自民党の体質には戻らないと思う。 若い人がうんと言わないだろう。 ただ、こう見ると小沢一郎君は、政治の節目で大きな役割をすでに果たした。 政治家としての役割は済んだという気がする」
■田中元首相は官僚を巧みに操ったが、政策新人類の登場で政と官の関係は変化しつつある。
  「若い人はよくやったと思う。 しかし、素人の付け焼き刃的なところがあり、危険な面もある」
■自自連立に伴う政策合意では、政府委員制度の廃止も打ち出された。
  「いいだろう。 しかし政治家によほど勉強してもらわないと、選挙向けの議論だけでは困るよ。 応答ができるかな」
■田中元首相の印象と、その評価は。
  「実行力のある異能の政治家だったが、一番の印象は、雪国新潟の厳しい風土で育ち、自分で道を切り開いてきた庶民のにおい。 国民がどこに住んでいても政治の光を当てたいというのが、あの人の原点だった。 それは実現した。 ただ( 公共事業批判や赤字財政など )今ではマイナスも出てきた。 功罪相半ばする巨大な存在だと感じる」
■経済が低迷し、一部には田中元首相のような指導力への待望論がある。
  「今は見あたらないが、今後は出てくる可能性もある。 しかし強力なリーダーが登場する時代は案外、日本にとって不幸じゃないのか。 本当は、そういう人が出てこない方がいいのかもしれないな」





元秘書・政治評論家
早坂 茂三氏( 68 )
はやさか・しげぞう
 1930年函館市生まれ。 早稲田大卒。 新聞記者時代に田中元首相を知り合い、62年秘書。 「日本列島改造論」 作成に参画。 政策面で元首相を23年間支えた。 85年から政治評論家。 著書 「回想田中角栄」 「政治家は 『悪党』 に限る」 など多数。
すべてを備えていた
「おやじ」もういない

 頼りになる 「おやじ」 が家庭からいなくなったように、政界からも 「おやじ」 は消えた。
 角栄さんが-、というだけではない。 力を持ち、信頼できる政治家が存在しないということだ。
 指導者に求められるのは洞察力、決断力、実行力と情熱。 そしてそれを支える人脈や情報力、専門知識、経験、気配りなどの要素だ。 角栄さんはそのすべてを備えていた。
 現実の政治家たちは、まず当選ありき。 そして、身の栄達と保身だ。 角栄さんは、来るもの拒まず、集まる政治家たちに資金を融通し、信賞必罰で抜てきし、それにこたえた。 見返りはただ一つ、総裁選で名前を書くことだけだった。
 金権腐敗だとしてマスコミは 「功3罪7」 で彼を評価する。 しかし政治はきれい事ではない。 力がなければ、やるべきことをやることが出来ない。
 いま、政治は小選挙区比例代表並立制という( 小選挙区落選者が当選する )ヌエ的制度の中で、多党分立状態が続いている。 参院での自民の劣勢は長ければ九年続く。 派閥は実質を失い、司令塔はどこにも存在せず、政治は迷走を続けている。 力のない政治家がきれい事だけを並べ、永田町には無政府状態に近い雰囲気が広がっている。
 角栄さんは、戦後日本の復興・成長、雪国新潟からの脱却を、明確な目標に掲げ、やりとげた。 それは、人々の願いそのものでもあった。
 いま、未曾有みぞうの経済危機の中で、国民の願いはただ一つ、不況からの脱出だ。 もし、角栄さんがいれば、その願いを実現するため、土地、税制、財源対策などで、大胆な 「調整型インフレ政策」 を断行しているだろう。
 自自連立で政局は第二の保守合同へ向けて動き出した。 ただそれも、田中政治の流れをくむ人たちが、力を合わせて、ようやく角栄さん並みに政局を切り盛りしようとしているようにも感じられる。
 農村的な日本の相互扶助社会が崩壊し、優勝劣敗の合理主義だけがはびこる今の社会に、角栄さんのような政治家が再び現れる土壌はない。





ことし7月の参院選で自民党は惨敗。 参院で過半数に届かぬ状況が生まれる。 小渕首相は、苦しい党運営を強いられていた自由党の小沢一郎党首と連立政権を組むことで合意した。
( 98年11月16日、連立へ向けた会談を前に握手する小渕、小沢両氏 )

96年1月、橋本内閣が誕生。 自民党は2年と5カ月ぶりに首班の座を奪い返した。 同年10月の総選挙で自民党は過半数を割るが、新進党からの離脱組などを吸収、基盤を強化していく。
( 96年1月8日、橋本氏を首相候補に決定、自社さ代表が署名=国会 )

細川内閣を引き継いだ羽田内閣も2カ月で崩壊。 非自民連立を去った社会、さきがけは自民と連立、94年6月、村山内閣が発足。 野に下った新生党、日本新党などは同年12月、新進党を結成した。
( 94年12月10日、国立横浜国際会議場での新進党結党大会 )





ロッキード事件1審有罪判決後の総選挙( 1983=昭和58年 )で空前の22万票を獲得した田中角栄元首相は、上越新幹線や関越自動車道など大事業が続々仕上がっていく様子と効果を見るため頻繁に地元選挙区入りした=1984年6月10日、小千谷市の信濃川堤防から新潟三洋電子の建設現場を視察





 田中角栄元首相とかかわりが強かった政治家たちへのインタビューを通し、55年体制崩壊後の政治を検証する田中元首相没後五年企画 「主役たちは語る 政界回り舞台」 が幕を閉じた。 連載に登場してもらったのは、小沢一郎自由党党首、野中広務内閣官房長官、羽田孜元首相、竹下登元首相、中曽根康弘元首相、武村正義さきがけ代表、鳩山邦夫民主党副代表の7氏。 各氏は田中元首相を懐かしみながら、自身の 「5年」 を率直に語ってくれた。 また、特集では後藤田正晴元副総理らにインタビューした。 彼らの証言をどう読み解くか。 その”遺産”が問われ続ける 「田中型政治」 とは何だったのか。 本県の政治風土にも詳しい高畠通敏・立教大法学部教授( 65 )=政治学=に聞いた。

立教大教授
高畠 通敏氏( 65 )
たかばたけ・みちとし
 東京出身。 東京大法学部卒。 68年から現職。 85年から2年間、法学部長。 本年度で定年を迎え、来春から駿河台大教授に。 著作は旧新潟3区を取り上げた 「地方の王国」 、 「日本政治の構造転換」 など多数。
遺産のあしき部分 新潟に色濃く
地方を 「国まかせ」 に

【田中元首相への評価】 まず、政治家、田中角栄についてだが、紙面に登場した政治家たちは皆その能力、資質を高く評価をしている。 「コンピューターのような頭」 ( 野中広務氏 )といわれるデータ収集力、官僚操縦術。 庶民的な人気。 日中国交正常化や 「山一」 の日銀特融で見せた危機管理能力 。 他派閥や野党議員も自分の懐に入れる、異常なほどの包容力を持った政治家でもあった。
 問題は、その資質がどのように政策や政治手法に現れたか。
 田中氏のリーダーシップは永田町の数合わせであり、カネの力がそれを支えた。 自民党一党支配を条件にした 「内向きの政治」 だ。 国内格差をなくし、利益団体を調整する開発型政治は、当時は有効だった。 だが日本は経済大国になり、国際的にも責任を負う必要が出てきた。 今の時代、田中氏がリーダーシップを発揮できたかは疑問だ。
 連載に出てきた政治家たちがそれを認識し、 「角栄の時代」 を乗り越えようとしている姿は印象的だ。 小沢一郎氏と武村正義氏は、その極端な例だろう。 2人の政治手法は違うが、田中型政治に反旗をひるがえして自民を離脱、政治改革の流れをつくった。 鳩山邦夫氏が田中氏から言われた言葉も非常に面白い。 「21世紀になるころ、田中政治は反面教師になる」。 田中氏は自分の歴史性をわきまえていたのだろうか。

【96年体制】 93年に55年体制は崩壊した。 問題は、自民党の一党支配が本当に終わったのか ということだ。
 自民党は小選挙区制と新進党からの 「出戻り」 に助けられ、96年の総選挙で亡霊のごとく復活した。 この時点で、55年体制を修正しつつ継続させるという、過渡的な 「96年体制」 がスタートしたと、私は見ている。
 実際、開発型政治は日本の社会に強固に残っている。 田中氏を 「天才」 、自身を 「俗人」 と語る竹下登氏は完全に田中氏の後継者。 竹下氏は田中型の利益誘導政治が今日でも有効と信じているのだろう。 だが、80年代以降、無党派層が膨れ上がり、選挙制度改革で都市部が基盤の議員も増えた。 田中型政治だけでは困る、という流れは自民党の中でも出ている。
 小沢氏は 「補助金だけでいい、権限いらんと思っている地方は多いのではないか」 と皮肉る。 開発型政治は国によりかかる方が楽、という意識を地方に育てた。 田中氏の遺産のあしき部分が新潟に色濃く残っている-という特集の指摘はその通りだろう。
 96年体制のゆえんは、日本の社会が豊かになり、東西冷戦が終えんするなか、戦後の革新が解体したという点だ。 その後には自民党の周辺部隊が残った。
 小沢氏やさきがけ、方向転換した社民党。 自民が基軸政党で、他は自民の”党外派閥”という構図だ。 「自民の復権に手を貸さない」 と言っているのは羽田孜氏くらい。 でも、これは信念であって実体はない。
 田中氏を反面教師と見るグループ、スローガンとしての改革を唱える小沢氏、開発型政治を守り続ける竹下氏-こうした人々が”共存”するヌエのような風景が今の政治なのではないか。

【今後の展望】 自民を軸にした96年体制は、長く続く可能性がある。 党内主流派と非主流派の交代という疑似政権交代、 「振り子の原理」 は自民の活力の源だった。 だが80年代、総主流体制になってから活力を失った。 96年体制は、党外派閥を巻き込んでダイナミックな疑似政権交代をやれる構図だ。
 自民が連合しないのは、共産党と最大野党。 民主党は、かつての社会党のように永遠に置き去りになる可能性もある。 中曽根氏が言うように 「公明を入れて自自公」 が実現すれば、新たな永続支配体制ができあがるだろう。
 今回の企画は大変、面白かった。 興味深いのは皆が田中氏を自分に引き寄せて解釈している点だ。 田中氏は、生まれから最期までが 「物語」 だった。 だがいまはどうか。 たとえば、菅直人氏には、エイズ問題処理という一つの物語しかない。
 田中氏のように人気と実力を備えた政治家は今後登場するのか。 日本の現代政治で両方を持っていたのは他には中曽根氏くらい。 いまの時代に田中氏のようなハングリーパワーを持った政治家が出る可能性は薄い。





次を語らぬ主役たち
改革されぬ金権政治象徴

 インタビューに登場しただれもが、田中元首相のことを、まるで一緒に生きた自分自身の 「時代」 を懐かしむように語った。
 その人を語ることが、時代を語ることになるという存在感を持つ人たちがいるとすれば、田中氏は明らかにその筆頭に位置する人物だった。
 それは裏返せば、彼の 「不在」 を語ることも、もう一つの別の時代を浮き彫りにする …… と言うことだった。
 55年体制が、元首相の死と時を同じくして崩れ去って5年。 政治が明確な方向性を見いだせない混迷の時代を、 「主役」 たちはさまざまな語り口でつづった。
  「( 田中氏が )もう二度と生まれない」 のは、彼の栄光を支えた高度成長社会のシステムが完全に行き詰まったからであり、 「まだ( 政治の中に )生きている」 のは、彼の挫折を生んだ、金権に象徴される政治システムが改革されていないため ―。 そういう暗喩あんゆが、いくつもの言葉の中から浮かび上がってくる。
 死後5年、病に倒れてからは13年、首相退陣からならば24年という年月が経過した。
  「 『田中的なるもの』 を切り口に、政治の今を問い直す」 という企画・取材に取り組んだ記者たちは 「角栄氏とは眞紀子の父親」 と受け止める世代。
 田中氏と同時代を生きてきた 「主役」 たちは、過去と今を語っても、次の時代、新しいシステムを語ることは少なかった。 それだけに 「田中不在という田中体験」 しか持たない若い世代に残された宿題なのかもしれない。 先月改訂された 「広辞苑」 新版には 「田中角栄」 の項目が新たに加わった。