「田中角栄」考
“田中眞紀子人気”を読み解く



とてつもなく大きな欠落

 田中眞紀子の政治家としての本領、つまりは政策なり政治手腕について論じるつもりはありません。 … というよりも人格をすら論じるつもりはないのです。 もちろん田中眞紀子の政策なり人格について、論じなければならないことは知っています。 けれども、今、何よりも論じなければならないと思うのは、田中眞紀子を、歓呼して迎えている人々について、つまりわが同胞たる日本人についてなのです。 田中眞紀子を国民の八割以上が熱烈に支持している。 とするならば、私は国民の大多数から孤立していることになるのでしょうが …。

 論じていく以上、政治活動にも、その人格にも触れざるをえますまい。 田中眞紀子は、外務大臣としてはかなり控えめな言葉で表現しても、歴代最低でしょう。 河野洋平が、“どうしようもない”というのとは、格の違う“どうしようもなさ”です。 イタリアのディーニ外相やオーストラリアのダウナー外相などにたいして、アメリカのミサイル防衛計画について独断で懸念を表明し、さらにはブッシユ大統領の石油業界とのコネクションや中国にたいする配慮までを語ったという。 国益を損なっている、などというものではない。 破壊しているに等しい。 外交の現場を、中学校のESSレベルの弁論大会と取り違えている。 そのうえ、この点を指摘した報道陣にたいして、発言を否定してごまかそうとしたのですから、何をか云わんや、というところです。 これまでの派閥の勢力均衡で選ばれた外務大臣であっても、ここまで水準の低い、破滅的な人物はいなかった。

 けれども、けれどもです。 国民の大多数が、このような人物に喝采をおくっている事態は、もっともっと深刻なものではないですか。
 記者会見で、閣僚という立場にある人が 「疲れた」 などと、無神経に連発し、しかもそうした発言をすることで、何らかの同情なり、配慮なりを報道陣なり、国民なりに期待している。 もちろん、それはある種の甘えに違いありませんが、この甘えは、自分の甘えが必ず通るという傲慢さを道連れにしている。 その点で、公的な場で、自分の状態を述懐することは恥かしい、といった嗜みについての懸念とはまた別の異様さを感じたのです。 それの異様さが不気味であるのは、行儀が悪いとか、嗜みがないというのとは別の、つまり品とか恥とかいった美徳の領域では判断することのできないような何物かが、振る舞いに現れてきたからです。
 田中眞紀子の不気味な振る舞いに接するたびに思うのは、田中眞紀子は他者との関係において、あるいは公衆を前にしていることにおいて、とてつもなく大きな欠落というか、勘違い、捩れがある。 それは、人格全体からすれば些細なものかもしれませんが、しかしまた人間性の、根本における変化と考えざるをえないところがあるのです。


すべてを焼きつくす「憎悪」

 田中眞紀子を論じれば、歪んだ幼稚さがあげられます。
 この幼稚さの根源を、一種のエレクトラ・コンプレックスと呼んでもいいかもしれません。
 エレクトラ・コンプレックスという言葉は、ユングがフロイトのエディプス・コンプレックスと対になるものとして作った言葉で、娘の父親にたいする無意識な恋愛感情を指します。
 エレクトラ・コンプレックスが、エデイプス・コンプレックスと対比して、非常に特徴的なのは、エデイプス・コンプレックスが成熟を促すのに対して、エレクトラ・コンプレックスは、成熟を拒むということです。
 このエレクトラの相貌に、田中眞紀子を重ねることは、きわめて容易でしょう。 父角栄が倒れるや否や、眞紀子は、早坂茂三をはじめとする父親の長年の腹心たちを、即座に追放しました。 この行為は、これまで自分が父親を独占することを妨げてきた、あるいは父親が自分よりも高く評価し、あるいは信頼し、頼りにしていた人々から、父親を取り戻すことだったのです。 闘病中にも、眞紀子は自分の意見に固執して、周囲の忠告や助言に一切耳を貸さなかったという話ですが、眞紀子にとっては父君の健康以上に父君を独占し、自分の思い通りにすることが大事だったのでしょう。
 何よりも、眞紀子において特徴的なのは、その強い復讐意識です。
 ひとまず、その復讐心は、父角栄の敵にむけられています。 つまりは父の仇です。
 まずは、旧創政会の政治家たち。 つまり竹下登以下、金丸信、梶山静六、小渕恵三らの故人と、小沢一郎、橋本龍太郎、野中広務、羽田孜といった、かつて角栄の子飼いの政治家であり、ロッキード事件の刑事被告人となった田中角栄に見切りをつけて竹下派を旗揚げした政治家にたいする強い怨恨です。 父角栄は、竹下らの分離独立ヘの憤激のために脳梗塞を起して政治生命を断たれたのですから、まさに父の仇にほかなりません。
 眞紀子の竹下以下への敵意は一貫して強烈なものですが、今回の総裁選にその敵意は、まさに100パーセント有利にはたらきました。 何しろ小泉候補の対抗馬が、橋本元総理であり、その票集めを仕切るのが野中元幹事長なのですから、そのボルテージが上がるのは当然でしょう。 選挙運動中、小渕元総理について 「お陀仏さん」 といって物議を醸したのも、失言というよりは、本音にほかなりません。
 今一つの仇敵は、アメリカです。 諸説はあるもののアメリカが、ある種の意図からロッキード社からの献金を白日の下にさらした、ということはほぼ間違いないでしょう。 事件の発端は、ロッキード社から事件の関係書類が、証券活動監視委員会に誤配されたために捜査がはじまったことによりますが、そんなに都合のいい郵便誤配がそうそう起こるはずがない。
 だとすれば、眞紀子がアメリカを敵視するのは当然でしょう。 というよりも、アメリカに復讐をするためにこそ外務大臣になったといってもいいかもしれない。 この点は、作為があろうとあるまいと関係ないのです。 むしろ、無意識のレベルで眞紀子は、アメリカに復讐をしていると云ってもいいかもしれません。 アーミテージ国務副長官との会合をキャンセルしたのも、作為ではなかったのか。 「パニック」 発言が出だのはこの 「ドタキャン」 の時ですが、それは狙ってというよりも、無意識を含めた 彼女の存在の根底からの衝動として、かつて日本の外交官がけしてしなかったような非礼を同盟国にたいしてしたのでしょう。
 イタリアやオーストラリア、近々の報道ではドイツの外相にたいしても、アメリカの新政権の安全保障政策の柱である、いわゆるミサイル防衛網( NMD、TMD )について批判してまわった のも、深い考えがあってのことではなくて、内心の反米感情から、アメリカの外交政策の核心をあえてあげつらったのかもしれない。 前に記しましたように、オーストラリア外相との会議において眞紀子は、ブッシユ大統領とテキサスの石油会社との関係を云々した といわれている。 事情通の間では、アメリカはエネルギー自立路線を歩もうとした田中角栄を失脚させるためにロッキード事件を演出したといわれています。 意識的、無意識的を問わない眞紀子の衝動は、その背景を考えれば一個人としては、むしろ見事なのかもしれない。 けれども、それをそのまま政治や外交にもちこまれてはかなわない、というのも本当のところでしょう。 さらに奇妙なのは、こうした眞紀子の、かなり特別な、日本全国を探しても二人とないような怨恨から来る感情的行動に、多くの国民が絶大な支持を与えているということでしょう。
 くわえて問わざるをえないのは、眞紀子の復讐感情が旧経世会やアメリカにとどまらないということです。 というより、そう見ざるをえない。 眞紀子の行動を見ていると、父角栄を闇将軍、金権政治家として葬った日本社会全体、さらにはその角栄の娘である自分を正当に扱わなかった日本にたいする強い怨恨感情を認めざるをえません。 ゆえに、外務大臣となった田中眞紀子は、晴れ晴れとして、好き勝手に振る舞って見せることによろこびを感じる。
 より問題なのは、こうした復讐意識と対になった君主意識です。 旧田中派の政治家にたいする物云いの中には、怨恨意識とともに彼等にたいする一種の君主意識が潜み出ています。 偉大なる父角栄の家来、手下にすぎないおまえたちが、なぜ、自分を無視してかくも大きな顔をしているのか、というような。 この意識は、国民全般、とくに官僚にたいしてもあります。 不世出の宰相たる田中角栄の娘たる自分は、いわば王女であり、王女として扱われるべきなのに、それにふさわしい扱いを受けてこなかった。 ゆえに国民は自分の放縦を甘受すべきだ、というような趣きがうかがえるのです。


日本人は不気味な集団になった

 ここにきて、ようやく問いは一巡するというべきでしょうか。 「パニック」 「疲れた」 という言葉として露出する、眞紀子のところを得ない発言は、何よりも復讐貫徹の宣言なのですが、実はその復讐を可能にするのは、眞紀子がエレクトラであり続けること、つまりは娘として復讐心に燃えて、母として、あるいは大人として、きちんとした一個の人格として社会や国にたいする責任を考えないでよいという、娘であるがゆえの、つまりは子供であるがゆえにこそ要求できる免罪符なのです。
 無責任な復讐を続けるためにこそ、眞紀子は、閣僚としてはきわめて異様な甘え的発言を連発しなければならないのです。 眞紀子は、外務省幹部の動向を確かめるために、こともあろうにある課長の通夜の翌日に電話をかけて、未亡人に幹部が出席したかどうかを糺したといいますが、およそ人間らしい慮りのかけらのないこの行為 もまた、幼き娘の激情として、本人にとってもまた大多数の国民からも認められるのです。
 今では、余りに古風かもしれませんが、政治とは父のものであり、母のものであると思っています。 それはむろん、実際に子供を持っているかどうかとは関係がありません。 たいした識見もないし、確信すらないのだけれど、とにかく生まれてしまった子供が充実した人生の一片を手にし、他者たちの間に何がしかの通じ合いをもって生きられるように、そのように世間を、社会を、国をあらしめようと発想するのが、政治の基本だと思っていました。
 眞紀子の政治は、そういう意味では、娘の、あるいは息子の政治です。 父に、母に、あるいは先行世代からの強いこだわりをもちながら、現状にただ、破壊的な不満だけをもっている。 怨恨と復讐感情から、今とりあえず機能し、人々の生活を支えているものを破壊してしまおうという愉快犯的な感情に憑かれている。
 最初に申しましたように、何よりも大きな問題は、この眞紀子の成熟を拒否しているがゆえの乱行を国民が、ほぼ全面的に認めていることです。
 それが、承認されるのは、国民がそれを愉快に思っているからでしょう。 父として、母として不様かつ不器用に負うことも出来ない責任をしょいこむことよりも、娘として、息子として、甘えの下で、現体制をとにかく壊せばいい、それによって、 「父」 や 「母」 が右往左往するのを見たいというのが、国民の要望なのだということになるのでしょうか。 かくして、日本人全体が田中眞紀子に心酔するという不気味な集団になったのです。