田中角栄のマスコミ支配
大量免許を実現した 「大臣決定」




 田中角栄のテレビに対する最大の贈物は、角栄が郵政大臣になってすぐさま着手した放送局の大量免許交付である。 田中は1957年7月10日、岸内閣の改造人事で郵政大臣に就任している。 初当選から10年目。 39歳での入閣は戦後最年少で、明治の尾崎行雄以来という30代の大臣誕生だった。

 NHKがテレビ放送を開始したのは1953年2月。 初の民放である日本テレビの開局は同年8月。 田中が大臣になったとき運営されていたテレビ局は、NHKが11局、民放が日テレ、ラジオ東京( TBS )、北海道放送、中部日本放送、大阪テレビの5局にすぎなかった。 フジやNETには予備免許が下りていたが、まだ放送は始まっていない。

 しかし、テレビの受信契約数は、1956年6月20万、11月30万、1957年6月50万と着実に増え続けていた。 先行局が活況にわくのを見て、全国各地から郵政大臣に放送局の免許申請が殺到する。 免許問題は歴代郵政相の懸案事項だった。

 これに対して、郵政省は電波監理局を中心として一括大量免許に慎重な立場を取った。 松田郵政相から寺尾郵政相( 田中の次 )まで電波監理局長を務めた浜田成徳は、田中角栄に 「テレビ局が全国にできれば家電・電子工業界に大きなプラスとなる」 と吹き込んだ人物だといわれている。 しかし当時は 「技術的にも経営的にも時期尚早」 というのが郵政の立場だった。 その郵政を、田中は34社の大量免許へと動かしたのである。

 田中は 「歴代郵政大臣回顧録」( 逓信研究会 )で次のように書いている。

「ある朝、登庁したら大きな大臣用の机の上に部厚い書類がのせられていたので荘電波監理局次長を呼んで 『結論はどうなんだ』 とただしたら 『たくさん理由は書いてありますが結論はノーです』 と答えた。

 私は、早速、浅野文書課長を呼んで 『事務当局はダメだといってきたが私は許可するつもりだ。 手続きについてはどういう手順をとればよいか』 とただしたら同君の答えは簡明直截であった。

 『大臣の決定は即ちこれ法律と同じです』

 私は浅野文書課長と入れ違いに小野次官を呼んだ。 やがて小野次官がやってきたので、 『電波の事務当局から一括免許に反対という書類を持ってきたのだが、あんたはどう思うか、自分は日本の将来の電波に重大な歴史をつくるときだと考えている。 また全国的混乱には終止符をうつチャンスだと思っているのだが ……』

 小野次官は冷静な人だが 『それは大臣のご決心次第です』 と明快に答えてくれたので部厚い書類の表紙( 係官、課長、局長と印鑑の朱で赤くなっている )全面に赤いペンで大きな×印を書いてから、この表紙だけ 『本件許可しかるべし』 と取り換えて欲しい、と依頼した」

 文書課長の 「大臣決定これ法律」 というアドバイスがふるっている。 今なら、国会も法律も無視した、官僚にあるまじき無茶苦茶な発言と批判されるだろうが、郵政省にあってはその通りという面が強い。

 浅野課長とは後のフジテレビ会長・浅野賢澄、小野次官とは後のNHK会長・小野吉郎である。