田中角栄のマスコミ支配
テレビと新聞に恩を売る




  さて、34社の一括予備免許は1957年10月に下りた。 就任から免許までの4か月で、角栄は一貫目ほど( 4キロ弱 )やせてしまった。 だが、苦労した甲斐はあった。

 NET、フジなどと並んでこれら大量免許グループが1958年13社、1959年20社とぞくぞく開局する。 受像機の普及も1958~9年ころから加速度的に進み、本格的なテレビ時代が開幕するのである。

 その種をまいた田中の放送界への 「功績」 は大きい。 テレビが世話になった政治家の筆頭は間違いなく田中角栄である。

 大量免許の際、大阪の民放2局に免許が下りたのも田中の 「功績」 として忘れてはならないだろう。

 京阪神地区には、1957年1月に電波監理審議会から出された答申に基づくチャンネルプランで、NHK教育局と民放準教育局の2局の新設が決定済みだった。 そこに新大阪テレビ( 後の読売テレビ )と新日本放送( 後の毎日放送 )へ免許を下ろせという自民党からの圧力がかかる。 読売新聞社長だった正力松太郎と毎日( 東京日日新聞 )出身の川島正次郎が強硬に推したといわれる。

 田中郵政大臣は、浜田電波監理局長に頼み込んでチャンネルプランを修正させ、NHK教育局と民放2局に免許を下ろした。 当時、 「隠しチャンネル事件」 として話題になった一件である。 これで大阪には、1959年3月までに4つの放送局が出そろった。 福岡でも同じ時期に3つできた。

 こうして、東京と地方を結ぶ四系列のネットワーク化が準備されていった。 四系列が東京キー系列というだけでなく、朝日、毎日、読売、産経の四大新聞系列を意味することはいうまでもない。 田中角栄は、テレビに恩を売っただけではない。 大量一括免許を下ろしたテレビを通じて、巨大新聞にも恩を売ったのである。 この新聞―テレビ系列化は、田中が首相だった74年、いわゆる 「腸捻転」 の解消という大きな節目を迎えることになる。

 田中は、郵政大臣として免許をさばいた経験から、 「郵政大臣は放送局の新設に関して強大な権限をもち、テレビに大きな影響力を行使できる。 また、新聞がテレビへの進出と系列化に熱心なため、郵政大臣はテレビ( 免許 )を通じて新聞にまで大きな影響力を行使できる」 と、気づいたのだ。

 田中角栄こそ、電波利権を左右できる郵政大臣というポストの重要性を初めて明確に自覚した政治家のひとりだった だから田中は郵政大臣を田中派の指定席とした。 郵政族に田中派議員が多いのもそのせいである。