田中角栄入門
角福戦争の政治的側面



 戦後日本の政治をリードしてきた自由民主党には大小の派閥があるが、その中で最も際立っているのが、次の二つの流れである。
① 吉田派 → 佐藤派 → 田中派 → 竹下派 → 小渕派 → 橋本派
② 岸派 → 福田派 → 安部派 → 三塚派 → 森派( 小泉 )
 この両派の違いは、現実主義者で実利を重んじる田中 と、行動に慎重で思慮深く論理的な筋を通す福田 の政治手法の違いに典型的に表れている。 財政についても、田中は 「日本列島改造論」 に見られるような 経済成長優先の積極派 で、一方の福田は 財政の健全化を心がける慎重派 である。

 開放的で庶民的な田中は、平和尊重と民主主義優先のハト派であり、官僚出身の福田はエリート志向が強く、森首相の 「神の国」 発言にも見られるように、天皇制にシンパシーを感じる保守主義者で、アメリカに追随しながらも、伝統的な精神的価値を重んじるタカ派だといえる。 ちなみに石原慎太郎は福田派の出身である。

 これに 「宏池会」 といわれる官僚中心の政治集団の流れがある。 頭脳が明晰で、プライドが高く、評論家としては一流だが、政治的パワーに乏しく、俗に 「お公家集団」 と呼ばれている。 大平が田中の盟友だったこともあり、田中派と連合することが多かった。 自らは吉田派直系の保守本流を自認している。
③ 吉田派 → 池田派 → 大平派 → 宮沢派 → 加藤派
 この他、三木派、中曽根派などが加わり、自民党内部で派手な政争が繰り広げられてきた。 とくに昭和47年7月5日の総裁選は 「角福戦争」 と呼ばれ、戦後日本の政治史に残る大激戦になった。 どうしてそうなったのかというと、佐藤首相が自分の派閥の実力者であった田中角栄をでなく、実兄である岸の後継者の福田を推したからである。 そして福田の次は中曽根という密約までして、田中を自民党総裁・首相の座から遠ざけようとした。

 これに反発して、田中は佐藤から独立して田中派を作り、総裁選に臨んだ。 さらに中曽根が田中につくというハプニングがあって、田中は福田陣営に逆転して勝利した。 総裁選の後、佐藤首相は演壇で田中の会釈にも答えず、首相官邸の庭で開かれた新総裁祝賀パーティにも顔を見せなかったという。 首相退任の記者会見では 「テレビはどこだ」 とブチ切れて、全国民の前で醜態を演じることになった。

 佐藤が3年後に脳溢血で急逝したとき、田中もすでに金脈問題に火がついて、首相を辞めていた。 佐藤危篤の報で駆けつけた田中は、 「こんなふうになっちゃって」 といいながら、佐藤の手を握り、体を撫でまわしたという。 それからまわりの医者や看護婦の一人一人の手をとって、 「オレじゃどうしょうもない。 頼むよ、頼むよ」 と懇願したという。 葬儀委員長は田中が務めることになった。

 ところで中曽根はなぜ、佐藤や福田を裏切って、田中に走ったのか。 田中から巨額の金が流れたせいだという説もあるが、中曽根は 「日中国交政策」 が決め手だったと言っている。 岸、福田は親台湾派だった。 これに対して、田中角栄は親中国の立場だった。 そして中曽根も中国との国交樹立を望んでいた。 中曽根が田中支持を決断したのはこうした政治的立場からの判断だという。

 田中と福田の違いは、日米安保条約に対する姿勢にも表れている。 福田や岸があくまでアメリカに追随し、安保条約を国是として継続させようとしたのに対して、田中は70年代にはこれを堅持するが、80年代は見直しも考えられるという微妙な発言をしている。 アメリカ一辺倒ではなく、外交や軍事、エネルギー政策などで日本の独立性を高めるべきだという現実的で柔軟な姿勢だった。

 首相になった田中はこうした考えのもとに、中国を訪れ、歴史的な 「日中国交回復」 を実現する。 中東戦争が勃発しても、田中はかならずしもアラブ敵視に走らずに、ヨーロッパや東南アジアを歴訪し、独自の資源外交を押し進めた。 このことがアメリカの怒りに触れて、 「ロッキード事件」 を仕掛けられのだという説がある。

 立花隆は 「田中真紀子研究」 のなかで、合理的な推理に基づいてこの説を一蹴している。 私も 「ロッキード事件アメリカ政府謀略説」 はとらない。 しかし、アメリカの司法当局が、三木首相の要請に快く応じたことは事実である。 これを機会に、田中を叩き、日本を叩いておきたいという意図がアメリカ政府にあったことはたしかだろう。