田中角栄入門
日中国交回復の舞台裏



 昭和47年9月1日、角栄はハワイでニクソン大統領と会談した。 2日後の共同声明で、 「日中国交回復は世界の緊張緩和に役立つ」 とうたわれ、田中は日中国交回復に向けて、アメリカのお墨付きを得た。 こうして、角栄は9月25日に中国へ旅立つことになった。
《 日本の総理大臣として行くのだから、土下座外交はしない。 国益を最優先して、向こうと丁々発止とやる。 いよいよとなったら決裂するかも知れないが、その責任は俺がかぶる 》
( 佐藤昭子 「私の田中角栄」 )
 角栄は日中国交回復の旅に出れば、生きて帰れないかも知れないとひそかに心構えをしていたという。 その頃、 「国賊・田中角栄」 のビラが街中に貼られ、右翼が街宣車を連ねて、官邸周辺で吠え立てていた。 角栄の演説会場で、刃渡り30センチの刃物をもった男が逮捕されたり、いきなり車の前に飛び出して寝ころぶ男や、田中事務所に 「あわせろ」 とどなりこんでくる男もいた。

 角栄が北京に旅立つ日には、血判書つきの抗議文を懐に、猟銃と刃物で暗殺を企てた右翼の青年が警察に逮捕された。 実際に田中首相暗殺計画があったようである。 台湾との関係を絶ち、共産主義の中国と仲良くしようというわけだから、右翼は反対する。 しかし、こうした中で、田中は世界の情勢を見据えて、この決断をした。

 周恩来との会談はかなり厳しいものだったらしい。 焦点は台湾問題だった。 台湾を中国の一省だと主張する周恩来にたいして、同行した高島条約局長が厳密な法律論を展開して、これに反対した。 これに対して、周恩来は日中国交回復問題は政治問題で、法律問題ではない。 高島は法匪だとまで言った。 田中もこれに対して言い返した。

  「賓客にまねかれ、供の従者を非難されたときは、主賓にも帰れと言われたことになります。 それが日中共同の文化ではないのですか」
 これに対して、周恩来は日本軍が何年、どこの戦いで、何万人殺したと、数字を際限なく上げはじめたという。 田中の血圧は200をこえ、鼻血を出すほどだったが、持ち前の粘り腰で望み、希望を棄てなかったという。
《 おれは周恩来にこう言ったんだ。 今はあなたにとって大きなチャンスですよ。 日本では会社と交渉するときは、トップが交代して新しい社長と商売するのが、一番有利なのです。 新しい社長には社内の期待もあって、大きな裁量の幅を与えるからなのです。 私は今、日本という会社の新しい社長なのだから、あなたにとって大きなチャンスなんです、とね 》
( 野上浩太郎 「政治記者」 )
 こうしてとにかく交渉は妥結した。 このときすでにガンにおかされていた周恩来は、10年来医者から禁止されていて口にしなかったマオタイ酒で乾杯し、田中の一行を毛沢東のもとへ案内したという。
  「もうけんかはすみましたか。 けんかはしなくてはいけません。 けんかをして、はじめて仲良くなるのです」
 毛沢東は角栄に声をかけ、二人は固い握手をした。 このとき角栄のみではなく、随行した大平や二階堂まで毛沢東との対面を許されたのは、中国側の破格の厚遇だったという。