田中角栄入門
田中角栄と道路建設



1.田中角栄の力の原点は立法

 長岡電鉄の電化を果し地元での支持を拡大する一方で、田中は霞が関に挑もうとする。 まず活躍の舞台として選んだのは、建設省だった。
 田中が初当選を果たした1947( 昭和22 )年12月、GHQ( 連合国軍総司令部 )によって内務省が廃止され、翌48年7月に建設省が発足した。 当時の田中の様子を、戦友・今井光隆はこう語る。
「初めて田中さんが当選された当時は、毎日、建設省をまわって名刺を配って歩いていたそうですよ。 自分で」
 田中は、自分と比較的年齢が近く実務にたけた課長クラスの官僚のところに毎日のように顔を出し、
「今度の選挙で当選しました田中角栄です。 どうぞよろしくお願いいたします」
 と挨拶してまわった。
 時には一人で、また時には地元の町村長の陳情に付き添って、官僚に頭を下げた。 当時は、特定の省庁と結びついた、いわゆる族議員と呼ばれる政治家はまだ現れていなかった。 官僚に直接、接触を求めようとする田中のような代議士は、きわめて稀だった。 そのため若い官僚たちの間に田中の名前は、 「ちょっと変わったやつ」 として徐々に浸透していったという。 のちに “建設族のボス” と呼ばれる、田中の若き日の姿だった。
 田中はいったい、何をめざして建設省に乗り込んでいったのだろうか。

 その手がかりとなるカセットテープが、支待者のもとに残っていた。
 1976年11月、田中がロッキード事件で逮捕されてから4ヵ月後、地元・新潟県柏崎市で聞かれた 「田中角栄前総理を囲む若人の集い」 での講演の中で、田中はみずからの政治力の原点についてこう語っている。
「私はですな、新潟県の代議士になった時に、三国隨道( トンネル )というのが通っておらない( ために )、新潟県というのは独立国だなと思ったんですよ。 これでは新潟県はよくならん。 窓をあけなきや、鎖国経済だと思ったんです。 それで私はね、やっぱり交通網で結ぼうと言ったけれど、できなかったんです。 笑われましたよ、お前なんかにできるもんかって。 先生の政治力はどのようにしてできたんですかと( 聞かれましたが )、政治力なんて、大してありません。 大してありませんけどね、私は立法したんです、立法」
 故郷・新潟にそびえる三国山脈にトンネルをつくり、太平洋側と交通網で結ぶ ――。 それが、田中の代議士一年生のころからの政治目標であった。 そしてみずからの力の原点と言った 「立法」 を通じて、田中は建設省に地歩を築き、目標の実現をめざす。


2.道路財源を確保せよ

 田中が建設省に足を運び始めた1947( 昭和22 )年から48年ごろ、日本は終戦直後の混乱からようやく立ち直り、復興への道を歩み始めていた。 工業生産は着実に増加し、それにつれてトラックの需要が急速に増えていった。 1945年度に約14万台だった自動車の保有台数は、1950年度には約36万台となっていた。
 これに対して、道路の整備は遅々として進まなかった。 1949年度で、道路の総延長は国道と都道府県道合わせて13万1,923キロメートル。 そのうち、舗装された道路はわずか2.1%だった。 ちなみにこの3年後でも、舗装率は2.7%にすぎない。 当時の建設官僚は、このころの道路整備の状況を振り返って、こう語っている。
「この調子でいきますと、全部舗装するのに140年もかかるというのが、当時の道路の整備状況、それから財源、予算の状況でした」 ( 『道路』 1948年2月号 )
 建設省は、活況を呈しはじめた経済活動を支える道路整備の遅れに対して、本格的な対応を迫られていた。 1948年から56年まで道路局企画課長を務めた佐藤寛政は、戦後復興が急がれるなか、なかなか進まない道路整備に焦りを感じていた。
 ある時、佐藤は、補修課の課長補佐だった河北正治を伴って、全国の道路の視察に出かけた。 朝7時に日本橋を出発し、東海道を進んだが、名古屋に到着したのは2日目の夜だった。 河北によれば、砂利道が続くため、着いた時ぱ全身ほこりだらけで、顔は真っ黒だったという。 さらに西へ進み、兵庫県と岡山県の境の船坂峠にさしかかった時、佐藤は河北に言った。
「おい河北君。 この峠が改良できるのは、俺の子どもか孫のころかなあ」
 視察を終えて帰京した佐藤は、道路の整備を進めるには、もっと画期的な財源が必要だと強く感じるようになっていた。
《 道路の予算をつくって大蔵省に折衝しても、半分以下に値切られてしまう。 こんなに細々とやっていたのではだめだ。 》
 道路局の路政課長だった浅村廉も、同じ思いだった。 浅村と佐藤は、GHQの資料を取り寄せ、アメリカの道路整備について研究を始めた。 その結果、アメリカではガソリン税を目的税にして道路財源に使い、それによって道路整備が促進されているという状況がわかった。 ガソリン税を道路整備にまわすことができれば、大蔵省の査定に関係なく、建設省の自由になる財源ができる。 何とかして日本にもこの方法を取り入れたい、と二人は考えたのだった。
 しかし特定の目的のための税金、いわゆる 「特定財源」 は、それまで日本には一つもなかった。 大蔵省は、特定財源により税金の使い道が制約を受けることになるのは問題があると、強く反対していた。 特定の目的にだけ使う税金の割合が増えると、国全体の利益を考えて予算を配分するということができなくなる。 それは、大蔵省白身の予算配分の権限を侵されることにもなりかねないということを意味していた。
 佐藤は策を練った。 まず目をつけたのは、世論の喚起だった。 全国各地の道路問題に特に関心の深い市町村長、自動車関係の諸団体に働きかけ、1949年2月、全国道路利用者会議を設立。 道路整備を進めるためには、特定の財源が必要だという世論を盛り上げていった。 こうした道路関係者の積極的活動が功を奏し、ようやく、戦時中に廃止となっていた 「揮発油税」 が創設された。 しかし、揮発油税は 「特定財源」 ではなく、使い道を特定しない 「一般財源」 となった。
 悔しがる佐藤に対して、上司の道路局長・富樫凱一は言った。
「運動を盛り上げても、役所が提出する政府提案では、予算の編成権を盾に大蔵省が認めるはずがない」
 富樫の言葉には、苦渋がにじんでいた。 佐藤は再び考えた。
《 政府提案がだめなら、議員提案にすればいい 》
 当時は、GHQの方針もあり、立法提案から委員会の答弁までを議員が務める 「議員立法」 が奨励された時代であった。 そして佐藤の頭に浮かんだ一人の代議士がいた。 田中角栄である。

 このころ田中は、衆議院建設委員会の理事を務め、道路予算に深くかかわるようになっていた。 のちにガソリン税法と合わせて 「道路三法」 と呼ばれる 「道路法」 ( 1952年6月に成立 )を議員立法し、 「道路整備特別措置法( 有料追跡法 )」 ( 1952年5月に成立 )にかかわっており、建設委員の中でも弁が立つ、ひときわ目立つ存在だった。 佐藤は田中を食事に誘い、こう特ちかけた。
「実は、あなたを見込んでご相談があるのです。 私たちは何とかして道路の整備を早くしなければと思っているのですが、それにはまず、財源を安定的に確保することが必要です。 それで、ガソリン税を道路整備にまわすという法案をですね ……」
 佐藤の話が終わるのを待たずに、田中は大乗り気で即座に答えた。
「そりやあいい。 よし、俺がやってやる」
 佐藤は述懐する。
「私よりも若いのに自信満々で、俺に任せろと言い切ってくれたんです。 あの時は本当にうれしかった。 やれるんじやないかという勇気がわいてきました」
 ガソリン税法 ――。 田中が先頭に立って提案することになるこの法案が、田中と建設官僚との、その後の関係を決定づけることになる。


3.田中角栄の口癖 「道路は文化だ」

 衆議院議員としての田中の事務所は、1949( 昭和24 )年9月に建てられた木造二階建の衆議院第一議員会館の2号館の210号室にあった。
 秘書を務めた佐藤昭子によれば、細長いその部屋は薄いグリーンのカーテンで仕切られ、奥のほうに議員の机と長椅子が一脚、そして手前の入り口に近いほうに、秘書用の机が一つ置かれていた。 佐藤昭子は、田中の地元・新潟県柏崎市の出身で、1946年に田中が初めて立候補した時に選挙を手伝ったことが縁で、その後、1952年から秘書となっていた。
 田中は、ガソリン税法の立法をめざすようになってから、毎朝、道路局の浅村路政課長に指示して答弁のための資料を届けさせ、道路関係者を集めて、連日、答弁の準備に没頭していた。
 また、地方県議会議員なども、陳情に訪れるようになった。 佐藤は、
「田中の道路に対する情熱は、誰にも劣らないくらい激しかった」
と言う。

 田中は私邸に、全国の五万分の一の地図を買いそろえていたという。 自分の構想にのっとって、道路や鉄道を地図に書き入れていくのが日常であった。
「道路は文化、文化は道路だ」
 これが田中の口癖だった。 1949年当時、新潟県内の国道舗装率は4.1%で、全国平均の1/5にすぎなかった。 冬の間、雪に閉ざされる集落では、人々が力を合わせて手掘りのトンネルを掘って 「道」 を確保していた。 小学校時代の恩師・金井満男は、田中が語ったひと言ひと言が、今も鮮やかに脳裏によみがえってくるという。
「先生、私の考えはまちがっているかもしれませんが、先生も応援してくれるでしょう。 明治以来の政府は、日本海側に金を、びた一文出していません。 こんなばかげた政治家、政治なんてあったもんじやない。 だから私の生きているかぎり、今日から日本中の金は全部、日本海側につぎ込もうと思っています」
 道路整備は、今のように限られた財源の中で分け合っているかぎり、いつまでたっても、地方、特に日本海側に金がまわってこない。 もっと道路財源全体を増やすことを考えなければ、らちがあかない。 そう考えていた田中自身にとっても、ガソリン税法は何としても成立させなければならない法律だったのである。


4.田中角栄は道路の恩人に

 1952( 昭和277 )年10月に発足した第4次吉田茂内閣で建設大臣に就任したのは、佐藤栄作だった。 佐藤はガソリン脱の目的税化に協力的だった。 12月2日に開かれた第15特別国会の衆議院建設委員会の場で、佐藤はガソリン脱について発言した。
「道路改良の推進でございますが、東海道、山陽道等の主要幹線道路、および京浜、中京、京阪神、北九州地区等の周辺における産業経済上の重要な幹線道路等に重点をおき、資源開発道路の新設、改良、あわせて、国際的観光地域における道路の整備も図っていきたいと考えます。 このガソリン税は、これらの保守改良の費用として考えられるべきもので、いわゆる道路の新設自体は、他の財源によるべきではないかというのが、私どもただいま考えておる考え方であります」
 ガソリン脱を利用して産業道路の改良を重点的に行おうという佐藤の構想を聞き、田中は内心反発を感じた。
《 ガソリン税を道路整備の財源として確保しても、日本海側につぎ込めないのなら、格差はまったく縮めることができないではないか 》
 佐藤の発言を受け、質問に立った田中は持論を展開する。
「たいへん勇敢にご発言になられたことに対して敬意を表するわけであります。 ただ一つ国道および重要府県道に対して多少意見が違う。 明治初年からの長い官僚政治で特に都市集中、表日本集中の政治が行われましたので、裏日本、北海道等は国費の恩典に浴さないことは私が言うまでもない事実であります。 ( 国道と都道府県道の総延長13万5,000キロのうち改良済み1万8,000キロ、未改良地点が11万7,000キロも残っている。 表日本中心の舗装に重点をおかれるのであっては、多少異論があります」
 佐藤は田中のこの発言を受け、
「表日本偏重の道路政策をとる考え方は毛頭なく、まんべんのない方策をとる」
と答弁した。 田中はここで、太平洋側中心主義に一石を投じたのである。
 ガソリン税を道路整備の財源にまわそうという 「ガソリン税法」 ( 正式名称は 「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」 )は12月23日、田中を含めた衆参両院議員26人の連名で、議員提案の形で提出された。 その提案の条文には、こう書かれている。
道路整備費の財源等に関する臨時措置法
( 目的 )
 第一条 この法律は、道路法( 昭和27年法律第180号 )に規定する道路の舗装その他の改築及び修繕を促進して道路の整備を図り、もって自動車交通の安全の保持とその能率の増進とに寄与することを目的とする。
( 中略 )
( 道路整備費の財源 )
 第三条 政府は、昭和28年度以降五箇年間は、毎年度揮発油税法( 昭和24年法律第44号 )による当該年度の税収入額に相当する金額を、道路整備五箇年計画の実施に要する道路法及び道路の修繕に関する法律( 昭和23年法律第282号 )に基づく国の負担金又は補助金の財源に充てなければならない
 田中らは 「目的税」 という批判を避けるため、 「税収入額に相当する金額を充てる」 という表現を使った。 しかしこの法案には、財政当局などの根強い抵抗が待ち受けていた。
 当時、道路局の路政課長だった浅村廉と、浅村の下で働いていた尾之内由紀夫、そして田中角栄の三人が、この時から30年余りたった1983年に行った座談会の記録が残っている。 田中はこの中で、当時を振り返ってこう語っている。
「道路整備費のために政府は当該年度の揮発油税収相当額を計上しなければならないということに、( 中略 )鉄道、運輸関係者はみんな反対だった。 公聴会に出ても全部反対。 ( 中略 )法制局と大蔵省が、これは憲法違反という問題がある。 外交権と予算の編成権は行政府の専権である。 だからガソリン税を目的税とすることは全く憲法違反であるということを言っています」 ( 『道路』 1984年2月号 )
 田中の証言にあるように、建設・大蔵の合同委員会では、反対意見が続出した。
「自動車だけがガソリンを使うわけではなく、航空機用ガソリンや農業機械用もあるのに、全部自動車が負担しているような顔をして道路に持っていくのはどういうわけか」
「道路が必要なら、国が堂々と予算をつければいいことで、ガソリン税を目的税的にするのは、財政の大綱を乱すものではないか」
 田中は、ほとんど一人で答弁に立ち続けた。 法案をめぐる委員会の論戦は、大蔵委員公設委員会の議員の代理戦争の様相を呈した。 その模様を田中の地元・新潟の新聞社が取材している。
《 参院連合委で大蔵側委員は提案者・田中に皮肉っぽく質問した。 「ガソリン税法は建設省の折衝のお助けをする法律に過ぎないような気がしますが……」 これに対し田中は 「建設省のためというような甘い考えは侍っておりません。 日本の産業の根本的な再興をするためには道路整備以外にないんだ」 とハネつけ、さらには 「最終的には、( 国土計画が )大蔵省の一方的な考えでやられることが多い」 と切り込んだ 》 ( 新潟日報社編『ザ・越山会』 )
 当時の建設省道路局長・富樫凱一は、
「田中はよく勉強してた。 反対派委員に追及されると 『一人当たり道路費に出している額はインドが39円 ……』 なんて話を出して煙に巻いた。 あんな資料、どこから探してきたのか、今でもわからんね」 と語っている ( 同書 )
 委員会での論戦で先頭に立つ一方で、田中は個別撃破にも動いた。 大蔵委員会と建設委員会の各議員を説得し、反対意見を封じ込め、賛成側にまわるよう入念な根回しを行った。
「建設委員会の意思統一を図ってくれたこと、これがいちばん大きかった」
と、佐藤寛政は振り返る。


5. 「道路特定財源」 の誕生

 道路整備費の財源等に関する臨時措置法は、第15特別国会に提出され、衆議院は通過したものの、参議院で審議中に衆議院が解散されたため、いったんは廃案となる。 そして第16特別国会( 1953年 )に再度提出され、衆議院に次いで7月13日に参議院で可決。 わ
 この法律は、建設省に莫大な道路財源をもたらした。 1952年度の国の道路予算は194億7,921万円で、一般会計予算の2%程度だったが、その10年後の1962年度には、1,884億円とほぼ10倍、一般会計予算の7.4%を占めるまでになっていく。 道路財源の増大にともなって道路整備も進み、1952年度に2.7%だった国道と都道府県道の舗装率は、1965年度には21.1%にまで伸びた。 ( この法律は、1958年から 「道路整備特別会計」 と形を変え、現在も続いている。 ちなみに、1995年度の特別会計の歳出予算は5兆1,847億円 )
 前述した座談会の中で、建設官僚たちは口々に田中の功績をたたえている。
 路政課長だった浅村が、
「こうした大きな制度が、道路法の制定後、間をおかずに成立したということは、すべて田中先生のおかげです」
と述べたのに対して田中は、
「三法の審議を読んでいると、(私は)優秀な建設省の下級官僚ではあったと思うな」
 と笑いながら語っている。
 さらに浅村が、
「役人だけでは力に限界があることも、われわれはよく承知しています」
 とつけくわえると、田中は、まさにわが意を得たりといったように言葉を継いでいる。
「役所だけではまとまりません。 ( 中略 )どこかで大なたを振るって方向だけを決める。 決めたら出す。 修正は後からするということでなければだめですな。 役人は頭がいいから100%合理化して出すからだめなんですよ。 自民党なんかも細か過ぎて大蔵省に持ってくるときにみんな削るだけ削って何もぜい肉をなくしてやるから、野党の修正にも応じられなくなってしまう。 80%、90%のものを出して、野党は十分意見も言える。 建設的意見でなかったら切り飛ばすというものを出せば、もっとまとまりがよくなるのですよ。 ( 中略 )これとこれと同じ薬がある、どっちを飲むかはお前さんの勝手だというふうにやればいいので、これ以外にないと言うからまとまらないのだよ」 ( 『道路』 1984年2月号 )
 官僚、そして野党。 田中はこの調整能力を武器に突き進んでいく。
 田中のおかげで道路整備が進められるようになったという意識は、その後も建設官僚の間に長く受け継がれていった。
 建設省地方道課長、道路局長、そして建設次官を歴任した高橋国一郎は、郷里が、田中の地元である新潟県柏崎市だった。 高橋は、田中と深いかかわりを侍つようになった官僚の一人である。
「恩人ですからね、建設の。 道路に関するかぎりは。 道路三法をみずから提案し、通してくださった方ですから、そういう意味では大変な恩人ですね。 日本の道路がこんなによくなったのは田中先生のおかげだというふうに、当時、みんな思ってましたからね」
 ガソリン税法成立から一年後の1954年8月、三国山脈を貫く三国トンネルが着工した。 延長1,200メートル、総工費4億2,869万円。 三国トンネルの工事の進捗状況を、当時のニュース映画 『新潟日報ニュース』 は、いくぶん高揚した調子で伝えている。 タイトルは 「全通迫る三国トンネル」 。
「徳川時代、参勤交代の道路として人馬の往来の激しかった三国街道も、国鉄上越線の開通以後はほとんど交通もとだえ、ただハイキングの人が通り過ぎる程度でした。 しかし、今やこの国道17号線は、首都・東京から埼玉、群馬の両県を経て裏日本の要衝・新潟市に通じる本土横断最短の幹線道路として、雄々しく浮かび上がってきました。 ( 中略 )日本一の米作県・新潟県と、大消費地・東京を結ぶ産業経済の大動脈は、いよいよ待望の全通に近づいてきたのです」
 そして工事開始から3年後の1957年12月、ついに三国トンネルは完成。 誰もが疑った目標を田中は実現したのだった。
 「三国山脈に風穴をあけよう」 という田中の演説に耳を傾けた小倉康男は、この時、田中の実行力を初めて思い知らされた。
「最初のうちは、 『なあに、でかいことばかり言って、できもしないこと』 と、こういうふうに笑っていたのが、 『また田中が言いだした。 田中のことだから実現してしまうぞ』 と。 じやあ、われわれも、田中への陳情を取りまとめる窓口をつくり、どんどん実現してもらおうじやないか、というふうに変わってきたわけです」
 小倉はこののち、南魚沼郡六日町で、田中に陳情内容を取り次ぐ窓口の役割を果たすようになる。


6.建設官僚の掌握

 初当選以来の政治目標の実現に成功した田中は、やがて、建設官僚の力をみずからの政治力を伸ばすために最大限に利用するようになっていく。
 建設省道路局は、橋、トンネル、高速道路、都道府県道の国道への昇格など、さまざまな陳情が集中する部署である。 1961( 昭和36 )年10月、北陸地方建設局長を経て道路局長に昇格した河北正治は、道路局長に就任したその日から、議員の要請に追われるようになったという。
「朝8時半になると、決まって電話がかかってくるんです。 ある県のある先生( 国会議員 )からで、 『おい、あれを一級国道に上げてくれ』 というような話だった。 ほかの議員からも、どんどんかかってくる。 当時は、議員の要請を調整するための予算がちゃんととってありました」
 河北によると、当時は局長の裁量で動かせる予算枠( 局長保留枠 )が確保されていたという。 まず8月末に概算要求を大蔵省に提出し、12月か年明けに政府の予算案が出される。 そして、道路局についた予算の中から国道課、地方道課などに予算を割り振りするのが通例だが、この時には、全額を割り振らずに、一部を 「局長保留枠」 という形で残すという方法がとられていた。 優先順位が高い政治家は誰だったのかと尋ねると、河北は苦笑いしながら、建設族といわれた何人かの議員の名前をあげたうえで、田中とほかの議員の違いをこう語った。
「田中さんは、予算を組む段取りを知っているから、注文書がちゃんと先にまわってくる。 早い時期に言ってきてもらえれば、いくらでもというわけでもないが、調整ができるし、局長保留枠で対応もできました」
 田中は、この予算編成の仕組みを巧みに利用して、地元の陳情を実現していった。 河北の記憶によれば、田中の選挙区である新潟3区の入広瀬村は、町村道から県道への昇格が特に多かったという。 田中が直接依頼してくることはほとんどなかったが、秘書が特ってくるメモを見ると、田中の顔がちらついたという。
「しようがないやと思った。 だから、ほかの地域よりも県道への昇格率が高くなっていった」
と、河北は言いにくそうに答えた。
 田中はやがて、国道のルート決定にも影響力を及ぼすようになる。
 1962年春、桜の花が咲き始めたころのことだった。 河北のところに、田中から電話がかかってきた。
「おい局長、どうだ、道路網昇格運動はどうなった?」
「はい、ご連絡遅くなりまして、すみませんでした。 すぐ行きますから」
 そのころ、都道府県道を国道に昇格してほしいという陳情に追われていた河北は、国道に昇格させることを決めたルートを記した全国一級国道地図を携え、目白台にある田中の私邸へと急いだ。 河北がルートの説明を始めようとすると、田中は一枚の地図を見せた。 それは田中の選挙区である新潟3区の小出町と堀之内町の載っている五万分の一の地図だった。 田中はその地図を河北の前に広げ、赤マジックで無造作にサッサッと一本の線を引いていった。 そして
「これでやってくれよ」
と指示した。
 それは、国道17号線のルートだった。 1952年に国道に認定された国道17号線は、新潟と首都圏を結ぶ大動脈であり、地元にとって17号線がどこを通るかは死活問題でもあった。 河北の記憶によれば、田中に呼ばれたのは、17号線の改良計画で小出町周辺の新しいルートをどう通すかを決めるための調査を始めようとしていた矢先のことだったという。 建設省道路局の考えていたルートはまだ公表されておらず、変更の可能な時期でもあった。
 田中の指示したルートは、群馬県方面から魚野川の東を通ってくる17号線を、そのまま東側を通らずに橋を架けて西側の堀之内町を通り、また対岸に戻すという 「逆コ」 の字形のルートであった。
「堀之内を通さなければだめだ」
 それが田中の強い意向だった。 河北があとで伝え聞いたところによると、田中が引いた17号線のルート沿いに後援会長がいて、激しい陳情合戦を繰り広げていたということだった。 通常であれば、なるべく近道をとり、ショートカットしていくルートにするはずのものを、 「逆コ」 の字形に曲がったルートにし、橋を二本架けるというのは問題がある。 とんでもないことになった、と河北は内心思った。 しかし、その場では田中に異を唱えることはせず、
「はい、わかりました」
 とだけ答え、そのまま引き下がった。
 なぜ何も言わなかったのか、と尋ねると、河北は一瞬ためらいを見せ、言葉を選びながら、
「それだけ、やっぱりお世話になったということが、潜在意識としてあるからじゃなかったのかな」
 と語った。 のちに道路局長を務めた高橋国一郎も言う。
「いろいろなことを頼まれたりしましたけれど、 『こういう理由で、これはだめです』 と言いますと、ちゃんと理解されて、決して無理強いはしなかったですよ。 ただ、できるものはできるだけ協力しました。 恩人だと思っていますから」
 田中の建設官僚への影響力はしだいに拡大していき、その力が田中の 「政治力」 を強大なものにしていくのである。