田中角栄入門
田中角栄と新幹線建設



1.田中政調会長のローカル線への執念

 田中角栄は、大蔵大臣に就任する以前の一年間、池田政権下で、自民党三役の一つ、政務調査会長を務めている。
 当時、自民党の政調会長には、一つのポストが約束されていた。 鉄道建設審議会の小委員長である。 鉄道建設審議会は、鉄道敷設法に記されている国鉄の建設予定線( 予定線 )の中から、建設の調査を始める線( 調査線 )や実際に工事を始める線( エ事線 )を建議する運輸省の諮問機関である。 そしてその小委員長は、審議会で話し合う案件を、事前に運輸省の事務局とともにまとめる役割を担っていた。 つまり、自民党政調会長になれば、鉄道建設のリーダーシップを握ることができた。 田中は、道路と並んで日本列島改造を支えることになる鉄道にかかわるようになったのである。
 田中は、1962( 昭和37 )年3月28日、東京・丸ノ内ホテルの大宴会場で開かれた第34回鉄道建設審議会の席で、鉄道に関する持論をぶった。
「私は、鉄道は今のような考え方ではいけないという考えを持っている。 年間2000億円という建設ではどうにもならないのであって、少くとも国有鉄道の年間の建設・調査・改良費を入れて、倍の4,000億円程度の10ヵ年計画ぐらいが必要ではないかというふうに考えている」 ( 『日本国有鉄道百年史第13巻』 )
 審議会の会長は自民党総務会長が務め、自民党幹事長や野党の有力者も参加する。 審議会には、大蔵、運輸、経済企画庁などの事務次官や、国鉄総裁、財界代表、学識経験者なども委員として参加していたが、発言するのはいつも政治家が中心だった。
 田中は、金屏風の前で語り続けた。
「採算のとれないところの投資をしてはならないということは間違いと思う。 ( 中略 )鉄道の制度の考え方でペイするとかしないとか考えていたら、鉄道の持つ本当の意義は失われると思う。 ( 中略 )ほんとうに深刻な立場で人口の分散化、大都市の過当集中を排除するということを考えなければいかんと思うのである」 ( 同書 )
 田中にとって鉄道は、地方に豊かな未来を約束してくれる救世主、発展の象徴であった。
「私は、鉄道はやむを得ない事であるならば赤字を出してもよいと考えている。 ( 中略 )もうからないところでも定時の運行をして経済発展という立場でこそ国有鉄道法の必要が私はあると思うのである」 ( 同書 )
 誰も反論する者はいなかった。 政界の中で実力を蓄えていく田中は、鉄道建設審議会を根城に、みずからの考える鉄道建設のあり方を強力に進めていく。
 当時国鉄は、東海道新幹線の建設に邁進していた。 2年後の東京オリンピックに間に合うよう、工事は急ピッチで進んでいた。 しかし国会で承認を得るために、予算は少なく見積もられていた。 当時の国鉄技師長・島秀雄によれば、
「爪に火をともすように、枕木一本、橋げた一枚でもケチケチして、設備を最小限におさえて、その代わり将来改良できる余地を残して建設していた」
 という。
 この当時の国鉄総裁は、十河信二だった。 1884( 明治27 )年生まれで、東京帝国大学卒業後、鉄道院に入り、大正時代の経理局時代から、現代の新幹線につながる鉄道の広軌化を支持していた。
 1955年に国鉄総裁に就任した十河は、当時、万里の長城やピラミッド、戦艦大和のような 「世界の三バカ」 と揶揄やゆされ、 「無用の長物」 になりかねないといわれていた東海道新幹線の建設を決断し、その完成に全力を傾けていた。 十河には、ローカル線の建設費を削ってでも新幹線をつくるべきだという信念があった。
 十河は総裁に就任する条件として、 「赤字線の追加建設を強要しない」 ことを運輸大臣らに要請していた。
 当時、国鉄総裁室文書課にいた岩崎雄一は記憶している。
「ローカル線の建設が鉄道建設審議会でどんどん建議され、国会で予算がついてくるわけです。 そうすると十河さんは、言葉は悪いですが、一種のサボタージュをするんです。 決裁をしない。 建設費の一部を、設備増強とか新幹線に使ってしまったのです」
 事実、ローカル線の建設費は切り詰められた。 1960年度のローカル線建設予算95億円のうち、ローカル線に実際に使われたのは55億円である。 残りは、東海道新幹線などにまわった。 そのため全国の新たなローカル線の建設は、遅々として進まなかった。
 橋は3年、鉄道は一生 ―。
政治家は、鉄道を誘致すれば一生落選しないという言葉があった時代である。 国会で、
「総裁は新幹線ばかりやっていて、地方線をつくらないではないか」
 と追及する者がいるほど、議員たちの不満は高まっていた。 鉄道建設審議会での田中の発言は、十河率いる国鉄の既定方針を真っ向から覆すものであった。 それは、ローカル線建設を望む地方選出政治家の希望を代弁するものであった。
 先の鉄道建設審議会の翌日開かれた第35回鉄道建設審議会の終了後、田中は、記者団に語っている。
「新線建設については財政投融資などというなまぬるいものでなく、もっと強力で画期的な財源確保の途を講じなければならない」 ( 『交通新聞』 1962年3月31日 )
 2ヵ月後、田中は再び鉄道建設審議会を開いた。 5月31日午後、赤坂プリンスホテルで聞かれた第36回鉄道建設審議会で田中は、運輸省と協議してつくりあげた 「今後の新線建設の進め方」 を読みあげた。 それは 「田中構想」 と呼ばれるものであった。
 田中は、驚くべき数字をあげた。 今後10年間に建設すべき鉄道に必要な予算の規模は、すでに着工している路線の継続建設分として1,800億円、調査中の路線に750億円、さらに低開発地域の開発や臨海工業地帯整備、新産業都市建設などのために新たに計画する路線用に2,450億円、これらすべてが、 「産業機構の地域的再編成」 のために必要だというのである。 総額は、2ヵ月前の審議会での発言よりさらに1,000億円増えて、5,000億円にのぼった。 現状のローカル線の建設費の100年分に相当する額であった。
 そして、財源を確保するために、この巨大な計画を国鉄から分離して、道路建設と同じように、政府の公共事業として行うことを提案した。
 審議会は田中の報告ののち、新線建設の規模、財源、施工方式について、田中と運輸省が作成した原案どおりの建議を決定した。
「鉄道新線の建設を道路、港湾整備等と同様に政府の公共投資とする以外にないものと思料せられる」
 国鉄は独立採算制のため、収支のバランスを考えて、限られた範囲内でしか予算を組むことができないが、政府の公共事業にすれば、名目さえ立てれば赤字を気にすることはない。
 建議では、高らかに宣言された。
「鉄道新線の建設は一般国民に与える有形無形の便益の増大と国家経済に与える効果の多大なることにかんがみ、国家的な政策上の見地から論ずべきであり、日本国有鉄道の企業的立場からのみこれを論ずべきではないことは明らかである」

2.田中大蔵大臣の力

 地方の経済発展のためならば鉄道は赤字を出してもよい ―。 田中のこうした発想が、現在もなお赤字を抱える日本鉄道建設公団を生むことになる。
 十河は最初、反対したという。 鉄道の建設は公団が行っても、運営するのは国鉄である。 赤字になるローカル線を、国鉄の意思とはかかわりなく任されることになりかねない。
 しかしこのころ、十河には、強く出られない事情があった。 この年の5月3日に起きた三河島事故( 死者160人を出した常磐線三河島駅構内の列車二重衝突事故 )で、批判の矢面に立だされていたのである。 責任をとって辞めるべきだという声が、政府や世論の一部から強くあがっていた。 一方、田中は7月18日、池田内閣の第二次改造で大蔵大臣になる。 公団の新設には絶好のポストである。 田中は 「鉄道建設公団設立に政治的生命をかける」 とまて言っていた( 『交通新聞』 1963年2月3日 )。
 田中の意向を受けて運輸省がまとめた法案の中で、公団は、鉄道網整備公団と名づけられた。 その 「鉄道網整備緊急措置法」 と 「鉄道網整備公団法」 と題する二つの法案の中身は、大胆なものであった。
 運輸大臣は、まず 「鉄道網整備10箇年計画」 を作成し、閣議の決定を求めなければならない。 そして建設した路線は、公団から国鉄へ無償貸与する。 もし国鉄がその路線を運営して利益が生じた場合、国鉄はその利益を政府に返納する。 逆に欠損を生じた場合は、国が補助をする。 建設資金から運営の損益まで、国が面倒を見るというものである。
 公団設置への急展開を受け、全国80ヵ所余りに散在する新線建設の推進団体は統一して、鉄道新線建設促進協議会( 鉄建協 )をつくった。 赤穂義士討ち入りの故事にあやかって、12月14日、赤坂プリンスホテルで開かれた結成大会では、会長に新潟県知事の塚田十一郎、副会長に宮崎県知事の黒木博が選ばれ、全国各地の知事、県議会議長、市町村長などが名前を連ねた。 翌日には、国会議員による超党派の鉄道新線建設推進議員団( 鉄建議員団・船田中会長 )が結成されている。
 公団設置がしだいに具体化していくこのころの様子を、『鉄建協十年史』 では次のように振り返っている。
「夏ごろには各方面で冷笑を浴びせる人もあって、予算作業でよく言う『討死』 か、せいぜい数年越しを考える『受験勉強』 かと見る人が多かったのだが、鉄建協は結成されて、熱心な会員はそのまま在京して各方面へ働きかけ、田中蔵相は省内の反対派を精力的に説得し終ったという評判が一時に高くなり、見る見るうちに公団実現の風評が大きくなった」
 12月22日に示された大蔵省原案で、鉄道網整備公団の予算はゼロ査定であった。 大蔵省内には、巨額の公共事業費を必要とする公団に対し、慎重諭が強かったのである。
 しかしここから田中の、大蔵大臣としての見せ場が始まる。
 12月28日夜、大蔵大臣室にいた田中のもとに、まず池田首相から電話が入った。 この時のことを田中は、のちの座談会で回想している。
《 「鉄道を何とかするような話があるがぼくは、と〔 池田は 〕こういった。 「ぼくは反対だ」 とまではいわせなかった。 ぼくは、といったから 「あんたは大蔵大臣の前任者として、大蔵大臣になったら総理大臣のいうことも聞くべきではないと、〔 私に 〕こういったではないか」 ( 笑 )こうぼくがいったら、 「わかった、わかった」 と。 ( 中略 )池田総理も、ボンと電話を切ったんですよ 》 ( 『交通新聞』 1971年3月26日 )
 さらに佐藤栄作から電話があり、次のようなやりとりがあったと田中は語っている。
《 開口一番 「君は国有鉄道を分割する案を検討中らしいが( 笑 )こと鉄道に関しては君、おれのほうが大先輩だ」 。 こういったから、その瞬間に 「いやあ惜しかった、あんた5分前にこの電話をかけてくれれば、公団はつくらなかったよ、いま運輸大臣綾部健太郎氏を呼んで、鉄道建設公団の設置はこれを認める、こう認めてしまった」 と、( 笑 )こういったもんだから、佐藤さんはガッチヤーンと電話を切ってしまった。 さだかに覚えておらんが、その池田さん、川島さん〔 正次郎。 自民党副総裁 〕、佐藤さんらの電話と前後して、運輸大臣を大蔵省に招き急きょ認めた。 そういういわくつきのものなんです 》 ( 同紙 )
 『鉄建協十年史』 によると、この日の午後10時すぎ、田中と運輸大臣との復活折衝が行われ、鉄道網整備公団の新設が決まった。
 残るは、法案の制定であった。 これに関して、大蔵省内部には反対意見が強かった。
「『鉄道網整備10箇年計画』 を作成し、必要経費を明文化すると、政府が10年間それに拘束される」
「緊急措置法をつくるほどの緊急性はない」
「公団から国鉄への貸与は、収益性の有無にかかわらず有償とし、公団としての減価償却費はそれで回収すべきだ」
 「貸与された鉄道を国鉄が運営してできた欠損は、国鉄全体の収支と考え、国鉄が負担すべきで、国からの補助は行うべきではない」 ……。
 田中は、 「10箇年計画」 の明文化はやめ、法案にその趣旨を含めることにし、鉄道建設後の公団から国鉄への引き継ぎは、 「有償で貸し付けまたは譲渡する。 ただし産業開発、後進地域開発の場合は無償」 とするという方向でまとめる。 建設費から運営資金まで国が丸抱えで面倒を見るという当初の理念は捨てることになったが、これで公団設置は実現した。
 公団の正式名称は、日本鉄道建設公団( 鉄建公団 )に決まった。 法案は2月12日に閣議決定され、国会ではいったん時間切れで廃案となるが、翌1964年2月に衆参両院で可決され、2月29日に公布された。
 同年3月23日に、公団は業務を開始する。 法律公布からわずか23日目の設立は、それまで設置された各種の公団の中で最短スピードであった。
 当初、公団が建設する工事線は全国で16線だけであったが、3月末と6月に鉄道建設審議会が開かれて工事線が追加され、全国で64の工事線を公団が担うことになった。 追加された工事線の中には、田中の地元、新潟県の六日町と直江津を結ぶ北越北線も含まれていた。
 64路線の建設費総額は、4,300億円となった。 田中が2年前に構想した5,000億円のローカル線建設という目標が、実現に向けてスタートしたのである。
 一方、国鉄の十河総裁は、夢にまで見た東海道新幹線の開業式を待たずに、1963年5月、追われるように退任した。 翌年に行われた盛大な東海道新幹線の開業式にも呼ばれなかった。
 東海道新幹線が開業した1964年は、日本鉄道建設公団が設立された年であり、国鉄が赤字に転落した年でもある。
 日本鉄道建設公団の予算のうちローカル線の建設費は、1965年度83億円、1970年度180億円、1975年度350億円と、急激に伸びていく( 『日本鉄道建設公団30年史』 )。
 田中が通産大臣の1971年ごろ、大蔵省主計局長だった相沢英之は、翌年度の日本鉄道建設公団の予算を話し合うために、田中のところへ出向いた。 公団の予算は、 「角さんの専管予算」 だったという。 国鉄の管轄は運輸大臣である。 しかし、田中との間で話がつくと、運輸省も自民党も異論を唱えることはなかったという。 運営の責任を負う当事者である国鉄も、意見をはさむことはできなかった。
 日本鉄道建設公団は、その後、1993年度末までに、76路線1,800キロメートルの鉄道を建設している。


3.地方に新幹線を

 ローカル線建設の主導権を手に入れた田中は、次に、鉄道の花形・新幹線を地方に引くことをめざしていく。 十河が鉄道再生のために必要だと考えた新幹線を、田中は地方の開発のために利用するのである。
 田中はのちの『日本列島改造論』 で、新幹線は 「地域開発のチャンピオン」 と言った。
 確かに東海道新幹線は開業後、乗車人員も収益も予想を上回る成功を収めていた。 しかしそれは、東海道線等の在来線が輸送量の限界に達しているところに新線を引き、産業および人口の密集地を結んで、さらに潜在需要を据り起こすことのできる条件に恵まれていたからこその成功であった。 成長の可能性を秘めた産業もなく、人口も少ない地方の人々にとって、新幹線はあこがれでしかなかった。
 それを、田中が変えていった。
 田中が新幹線に着目するきっかけをつくった一つの学会があった。 1976( 昭和42 )年5月、広島で開かれた日本土木学会総会である。 そこで、当時、日本鉄道建設公団副総裁だった篠原武司が、 「鉄道の現状と将来」 と題する報告をした。 篠原は訴えた。
「将来の輸送需要に対処し、国土の均衡ある発展を促進するため太い交通路線を先行的に整備する必要がある。 わが国の地形的特性を考えた場合、これに応える交通路として、四つの島を結ぶ日本縦貫高速鉄道を建設し、これを背骨として全国鉄道網を新しく再編成する必要がある」 ( 篠原武司『新幹線発案者の独り言』 )
 そして篠原は、新幹線方式で次の高速鉄道網を建設することを提案する。 北海道から本州を縦貫して九州に至る高速鉄道、裏縦貫高速鉄道、本州から四国を経て九州に至る高速鉄道 ― これらは、すでに開発されているところの混雑緩和のために新幹線を引くのではなく、新幹線によって開発を促進しようという提言であった( 同書 )。
 篠原には、ローカル線をつくっていた鉄建公団で新幹線もつくりたいという願望があった。 そこで、学会報告にローカル新幹線計画を選び、その有効性を訴えたのである。
 その講演内容が小さく新聞に出た。 すると、田中から電話がかかってきた。
「君の話はおもしろそうだから、党に来て話をしろ」
 篠原は数日後、自民党へ出向き、田中ら数人を前に要旨を説明した。 聞き終わって田中は言った。
「君の話はおもしろいから、それもっと増やせ。 1万キロメートルくらいにならんか」
 当時、国鉄の全路線の総延長は、2万キロメートルだった。 篠原は、1万キロメートルはとても無理で、5,000キロメートル程度が妥当だと考えていた。 しばらくして、7,200キロメートル程度の案をつくって提出した。
 田中は、それでも 「まあいいな」 と言って満足そうだったという。
 田中は、なぜ篠原の案に興味を待ったのか。
 1965年6月、佐藤内閣の第一次改造で大蔵大臣から自民党幹事長となった田中は、66年12月、一連の黒い霧事件の責任をとる形で幹事長を辞任していた。 この時から約2年間、田中は閣僚や党三役のポストを持たず、新しい国土計画の作成に没頭していたのである。 1967年3月、自民党では、衆参両院から87人の国会議員が集まって都市政策調査会を結成していたが、田中はその会長を務めていた。
 過密過疎の問題が顕在化するなかで、自民党には、それまでの農村を基盤とした政党から脱却し、都市政策を合んだ全国的な過密過疎解決のための政策を議員の手でやろうという機運が高まりつつあった。 田中をこの調査会に誘った坂田道太によると、
「政治を役人の手から政治家の手に取り戻そう」
 という気持もあったという。 実際には、田中の秘書らが調査会を運営し、70回にわたる会議を開き、翌68年5月に 「自民党都市政策大綱」 をまとめあげた。 その真っ最中に、篠原の提案が耳に入ってきたのである。
 自民党都市政策大綱には、 「高能率で均衡のとれた国土建設」 「新国土計画の樹立」 が高らかにうたわれた。 そして総延長4,500キロメートルの 「全国新幹線綱計画」 が盛り込まれていた。


4.第二のガソリン税

 田中の新幹線への取り組みは、1968( 昭和43 )年の11月、第二次佐藤内閣で二度目の自民党幹事長になって、さらに加速していく。
 東京・平河町の自民党本部の4階に、総裁室と並んで幹事長室がある。 広い部屋の片隅に置かれた黒革の応接セットは、30年近くたった今も、田中が幹事長を務めていた当時のままである。 幹事長の座る椅子だけ一人用で、ひじ掛けがついている。 時代を経て、背やひじのあたる所だけは、革がかなりすり切れている。 田中はこの部屋で党の運営を話し合い、官僚たちに注文をつけた。
 1969年春、自民党幹事長室を、運輸省大臣官房参事官の原田昇左右が訪ねた。 運輸省の中で、総合的な交通政策の立案を担当していた原田は、運輸省が考える新幹線の建設計画案を田中に見せた。 それは、実現可能な案として、およそ3,500キロメートルの計画案だった。
 計画案をひと目見て、田中はたたきつけるように言った。
「こんな消極的ではだめだ。 もっと広げろ。 全国を開発するんだから、全国的にネットワークを描け。 7,000キロか8,000キロぐらいの絵を描け」
 田中は、原田に有無を言わさず続けた。
「鉄道や道路は地方を開発するための基盤整備だ。 そろばん勘定で合ったものだけをやるのではない。 赤字でも国が責任を待って整備し、それをテコに開発していけば、国民経済として十分利益が出るのだ ……」
 原田は引き下がらざるをえなかった。
 このころ、すでに田中は、全国新幹線網計画を実現させる妙案を侍っていた。 5月26日、2年半ぷりに聞かれた第47回鉄道建設審議会に出席した田中は、最後に行われた委員の意見交換の場で語った。
「国土の有効な開発を促進するため、新全国総合開発計画〔 新全総。 69年5月に政府が閣議決定した国土計画 〕が示した全国の新幹線網の建設を合めて鉄道新線建設の新しい長期計画を策定するとともに、新幹線建設の財源を確保するため、たとえば自動車に”第2のガソリン税”ともいえる課税を行ない、鉄道建設費に充当したい」 ( 『交通新聞』 1969年5月28日 )
 1950年代に田中が 「道路の恩人」 と呼ばれるきっかけになったガソリン税 ―。 1960年代末、田中は 「第2のガソリン税」 をつくって、全国新幹線建設の産みの親になろうとしていたのである。 しかもそれは、自動車に課した税金を鉄道建設にまわすという大胆なプランであった。
 第2のガソリン税とは何か。
 1950年ごろに国鉄担当の新聞記者として田中と知り合い、この当時、国鉄の構内営業の会社を経営するかたわら、田中と国鉄のパイプ役を担っていた魚住明は、田中の頭の中にあった構想を聞いたことがある。
「田中は、現在、車検の時にかかっている自動車重量税のようなものをつくり、その収入を鉄道にまわそうと考えていたんです。 その配分を、初めは、道路建設に5、鉄道の新線工事に3、鉄道の設備整備に2の割合で振り分けようというつもりだったんです。 さらに新幹線通行税として、一人1,000円くらい取ることも考えていましたね」
 くしくも同じころ、建設省でも第2のガソリン税が検討されていた。 新たな道路建設のための予算獲得に苦慮していた建設省道路局長の高橋国一郎は、アメリカのトン税に注目していた。 トン税は、自動車の重量に応じて課税するものである。 自動車は重ければ重いほど道路に負担をかけることになるから、重さに応じて道路建設費を徴収するという考え方には合理性がある。 対象者が限られ、一般的な増税にもならない。
 高橋は、車検の時などに自動車の重量に応じて税を徴収する自動車重量税法案をつくり、田中のところへ相談に行った。 田中はこの法案を認めたが、注文をつけた。
「この法案が通ったら、その1/4は市町村の道路の整備に使うぞ」
 高橋は、 「これはしかたないな」 と思った。 市町村でも道路建設費が不足しているのは確かだからだ。 しかし、田中はさらに意外なことをつけくわえた。
「残った分の80%は、国の道路整備だぞ」
 高橋は尋ねた。
「あとの20%はどうするんですか」
 田中は、 「ほかの交通機関に入れる」 とだけ答えた。 ほかといっても、あとは鉄道か飛行機、船しかない。 田中が鉄道に熱心であることを知っていた高橋は、すぐに事情を察した。 これはやむをえないと思い、引き下がったのである。
 実は、これよりも前に田中は、大蔵省主税局の高木文雄に話をつけていた。 田中は高木に聞いた。
「一般的に鉄道と道路を比べると、もう少し鉄道の整備をスピードアップしなければならないと思うのだが、鉄道でうまく税金を徴収する方法はない。 道路利用者から税金を取って、それを鉄道にまわしたいが、税金制度として問題はないだろうか」
 高木は、 「結構じやないですか」 と答えていた。
 自動車重量税法は、1971年2月に成立する。 ただし道路族議員の反発で、鉄道に振り当てられたのは、全体の一割にすぎなかった。
 1969年6月25日、ホテル・ニュージャパンで聞かれた第48回鉄道建設審議会は、重要な決議をした。
「山陽新幹線以外の新幹線網の整備には法案を次期通常国会に提出する」
 東海道新幹線や建設中だった山陽新幹線は、東海道本線、山陽本線の輸送量が限界に達していたため、それぞれの線の増線工事として行われていた。 そのため、鉄道敷設法に基づく新線建設と異なり、鉄道建設審議会を通さずに国鉄の判断で建設を決定していた。 鉄道建設審議会は、そのような国鉄主導の新幹線建設を、審議会主導、つまりは政治家主導に改めようと決議したのである。
 審議会の終了後、鈴木善幸会長( 当時自民党総務会長 )は言った。
「新幹線網は、全国の総合開発のため、早急に建設しなければならない。 建設の主体は、常識的にいって鉄道建設公団になろう( 『交通新聞』 1969年6月27日 ) 新幹線の建設も、国鉄から切り離そうというのである。」
 それは、審議会委員である田中の考え方でもあった。


5.佐藤栄作との対立

 審議会の決議を受けて、運輸省内では、次期国会に提出する全国新幹線鉄道網の整備に関する法案の作成に入った。 7月に入ると、自民党の国鉄基本問題調査会のもとに委員会が設置され、国鉄OBの江藤智参議院議員を中心に、自民党政調会、総務会、運輸省、国鉄、鉄建公団の担当者が集まり、週に一回法案を検討していく。
 そこで最も話題になったのは、法案ではなく、それに添付する別表であった。 法案では、従来の鉄道敷設法にならって、 「新幹線鉄道の路線を別表により法定すること」 とされる見込みであった。 つまり別表に記載されれば、将来新幹線が建設されることになる。 1969( 昭和44 )年7月30日付『交通新聞』 によれば、別表に記載される新幹線全体の規模は、当初は運輸省の3,000キロメートル案、鉄建公団の5,000キロメートル案( 7月17日発表、9路線 )、政府の新全総の7,200キロメートル案が参考にされた。
 ところが8月21日にまとまった江藤試案は、一部狭軌区間を合みながら8,000キロメートルと、それまでにない規模にふくらんでいた。
 この間の事情を、当時の自民党交通部会の会長だった細田吉蔵は、次のように語る。 交通部会は運輸族議員の集まりである。
「それはもう、当時の勢いですね。 あそこは計画に入って、ここは入らないでは、困る議員が出てくる。 党でまとめて法案にするためには、みんなが賛成してくれなければできないですからね。 われもわれもと、みんな入れざるをえなくなっちやったんですね」
 ふくらむばかりの計画を、運輸省はどう考えていたのだろうか。 当時、運輸省鉄道監督局長だった町田直は率直に語る。
「いかに完成が遠い将来のことであっても、収支はどうなるのかとは思いました。 しかし運輸省にとってみれば、新幹線が新たにできて、それが一つの既成事実になって、その後も予算がどんどんついてくるということになれば、ある意味でプラスですからね。 だから、正面きって反対する筋でもなかったんだなあ。 その辺はつらいところなんだけれども」
 さらに9月10日にまとまった最終案は、15年計画で28路線9,000キロメートル、すべて広軌で、全国の県庁所在地をくまなく通るというものにふくれあがっていた。 総工費は、この年の国の予算の1.4倍にあたる11兆3,000億円に連すると見込まれた。 着工順位は未定で、財源には自動車新税や鉄道債券をあてるとされた。
 この最終案には当時から、
「総選挙を控えた議員の強い陳情を受けて田中幹事長が朱を入れた」
 と噂されていた。
 運輸省鉄道監督局の国鉄部長として全国新幹線鉄道整備法の法案を実際に書いた山ロ真弘は、できあがった原案を自民党に侍っていった時のことを記憶している。
 鈴木善幸総務会長、水田三喜男政調会長は、いずれも賛成した。
 田中だけが違っていた。 田中は法案を受け取ると、まず別表を見た。 そして、一線一線じっくりと検討しはじめた。 特に、太平洋側と日本海側とを連絡する路線や、日本海側を縦貫する路線については、熱心に自分の意見を述べた。 そして最後に言った。
「ここに、もう一線つけくわえるべきではないか」
 田中はみずから赤鉛筆を取って、追加すべき路線を書き加えた。 そしてこの案がそのまま、法案の最終案になったのである。 山口は、田中が書き加えた路線がどこであるのかについては明らかにしなかった。
 9月21日に聞かれた国鉄基本問題調査会と交通部会の合同総会で、全国新幹線鉄道整備法案は正式な決定を見た。
 翌1970年3月5日、赤坂東急ホテルで開かれた第49回鉄道建設審議会で、この法案が審議された。 田中は法案の重要性を訴えた。
「道路、海上輸送には限界があり、効率的な輸送体系の主役は新幹線鉄道網であり、直ちに建設に着手しなければならない。 法案は今国会でぜひ成立させたい」 ( 『交通新聞』 1970年3月7日 )
 明治大学名誉教授の麻生平八郎が、
「世界にも例のない大きな計画だから、慎重にすべきだと思うが、立法化を急いでいる理由は何か、お聞かせ願いたい」
 と質問すると、田中は、
「これがいっとき遅れますと( 中略 )日本の経済は大混乱するということでございます」
 と答えた( 『朝日新聞』 連載 「上越新幹線の内幕」 1982年10月29日 )。
 3月11日に聞かれた第50回鉄道建設審議会では、大蔵省と経済企画庁から、建設は慎重に進めてほしいという意見が出る。 しかし、鈴木善幸の 「財政当局の要望意見も十分考慮して慎重に扱う」 という言葉で議事は終了し、全員一致で法案要綱が決定する( 『交通新聞』 1970年3月13日 )。
 法案は、引き続き自民党の総務会や政調合でも了承され、9,000キロメートルの新幹線計画は、国会に提出されるばかりになっていた。 しかしここに、意外な事態が起きる。 時の首相・佐藤栄作が別表に反対を表明したのである。
 4月10日、佐藤は関係者を呼びつけた。 官邸に集まったのは、橋本登美三郎運輸大臣、水田政調会長、鈴木総務会長、江藤智と、運輸省鉄道監督局長の町田直。 町田の記憶によると、佐藤は強い調子で言った。
「別表はいけない。 建設する路線が法律に書いてあれば、地元から要求が来れば断れない。 予算がこま切れにつけられ、効率の悪い建設になる。 それに、世の中の状況というのは、時代につれて変わってくる。 今、新幹線が必要だと思っても、あとになって必要なくなることもあるし、逆に、法律に書いてなくても、将来必要になって困るかもしれないじやないか。 別表ははずせ」
 運輸省出身で、政治家から赤字線を押しつけられることの苦労を知っている佐藤の言葉は重かった。 江藤だけが反論した。
「総理、そんなこと言ったって、新幹線をつくるということは公約ですよ」
 佐藤は厳しかった。
「公約なんてものはね、君、しょっちゅう変わるんだよ」
 その後、田中は佐藤と2人で会った。 その時の様子を伝え聞いたという運輸官僚たちの証言から再現してみる。
「総理、あなたは山口県の出身だ。 山陰新幹線ができれば、あなたの萩にも新幹線ができますよ」
「タヌキでも乗せる気か。 赤字が累積するだけだ。 誰が収支決算の責任をとるんだ」
「総理、そんなことをおっしやったって、これはね、各省がみんな賛成しているのですよ」
「何、言ってるんだ。 政府は僕だ」
 5月、衆参両院ともに、2日のスピード審査で全国新幹線鉄道整備法は成立した。 しかし別表は削除され、具体的な路線は運輸大臣が決めることとされていた。


6.田中の強い指導力で上越新幹線実現

 全国新幹線鉄道整備法が成立すると、焦点は、どの路線が優先的に着工されるか、ということに移った。 田中は、地元の新潟と東京とを結ぶ上越新幹線の実現に向けて精力的に動きだす。
 1970( 昭和45 )年5月7日、東京の赤坂プリンスホテルで、上越新幹線建設促進大会が聞かれた。 新潟、群馬、埼玉各県の市町村関係者や国会議員ら150人を前に、田中は挨拶した。
「夢が夢でなくなるのも、もうすぐです」
 法律成立直後から、山陽の次は東北、上越、成田であるというのが、政界、運輸関係者共通の認識であった。
 10月30日には、橋本運輸大臣が閣議後の記者会見で、次の鉄道建設審議会に提出する新幹線新路線は東北、上越、成田であると明言した。
 もっとも自民党内では、 「3路線は三役路線だ」 という批判も出ていた。 上越新幹線は田中幹事長、東北は鈴木善幸総務会長、成田は水田三喜男政調会長の地盤を通っていたのである。 しかし、3線以上に増やすことは財政上難しく、結局、この3路線に落ち着いた。 また、大蔵官僚は、財政を圧迫するという点で新幹線の大幅な増設に懸念を抱いていた。
 当時、大蔵省の運輸担当主計官だった金子太郎は、田中を訪ねて進言した。
「上越新幹線というのは、黒字になるめどがつかないんですよ。 その時はどうすればいいのですか」
 田中は即座に答えた。
「君、それは大丈夫だ」
 金子によれば、大蔵官僚が介入する余地はなかったという。
 1971年1月13日、第53回鉄道建設審議会で、橋本運輸大臣から、東北( 東京-盛岡 )、上越( 東京―新潟 )、成田( 東京―成田空港 )の3新幹線の基本計画が提案され、社会党や公明党の委員から意見が出た。
「国鉄の赤字を解決してから、こういう立派な計画をやるべきだ」
「何か、都合のいい路線だけポンポンと3つできて、あとのほうはいつやるのかわからない。 おさまりがつかない」
( 『朝日新聞』 1982年10月29日 )
 しかし、鈴木善幸は 「緊急を要するものでございますので、本日答申したい」 と押し切り、審議時間一時間半で、3新幹線の基本計画は決定した( 同紙 )。
 2月5日、第54回鉄道建設審議会で、前回決定された基本計画に次いで、施工主体や建設費概算を定めた新幹線整備計画が審議された。 事務局が答申案を朗読する。
 大蔵事務次官の代理として出席していた金子太郎には、うしろのほうの席しか用意されていなかった。
「お前は発言するなという意昧なんでしょうね」
 と、金子は会議を振り返る。 誰かが異論を唱える雰囲気ではなかったという。
 一時間余りの審議で、整備計画も決定する。
 1971年4月、運輸大臣は3つの新幹線の建設を国鉄と日本鉄道建設公団に指示したのである。 そのうち上越新幹線を建設することになったのは、日本鉄道建設公団であった。


7.新幹線狂想曲

 石油ショックの半月前の1973( 昭和48 )年9月21日、田中首相は、幹事長時代から協力して新幹線網計画を推進していた鈴木善幸総務会長( 鉄道建設審議会会長 )と会談した。 この日、すでに基本計画に組み込まれていた調査新幹線5線( 北海道、東北〈 盛岡-青森 〉、北陸、鹿児島、長崎 )のルートが、両者の間で合意された。 この日、決定された新幹線のルートには、田中の意向が色濃く反映されていたという。
 夏以降、全国各地の県知事、県会議員、代議士などによる目白詣では激しくなった。 その中に、福井県知事の中川平太夫の姿があった。
 国鉄が北陸新幹線について当初計画していたルートは、4通りあった。 現在の北陸線沿いに米原から東海道新幹線へ出るルート、琵琶湖の南側か西側を通って大阪へ出る2つのルート、そして若狭湾沿いに走り、京都を経て大阪へ入るルートの、計4ルートである。 中川がめざしていたのは、若狭湾沿いに走る若狭ルートだった。 「若狭ルートを通れば、小浜市を経由する。 小浜の過疎を食い止めるには、何としても北陸新幹線が必要だ」 と考えた中川は、国鉄、鉄建公団、自民党三役などに陳情攻勢をかけた。 なかでも、最終決定権を握るといわれる田中首相への直接の陳情は、4回にのぼった。
 そしてついに、田中の “聖断” が下される日が訪れた。 8月12日午前7時半、場所は目白台の田中邸。 この日のやりとりは、以下のようなものだったという。
首相 「ウン、若狭ルートだな。 これは必ずやる。 オレがやると言ったら、必ずやるよ」
知事 「ありがとうございます。 それやったら満点でございます」
首相 「ただし、京都市内を通るのはいかん。 あれは古い町だからな。 若狭から亀岡へ出るルートでやろう」
知事 「それで結構でございます。 ありがとうございます」
 ( 『毎日新聞』 1973年10月7日 )
 北陸新幹線だけでなく、北海道新幹線のルートにも田中の力は働いたといわれる。 国鉄などは、札幌から南下して苫小牧や室蘭を通るルートを有力と考えていたが、決定したのは、札幌から西に向かい、小樽を通るルートであった。
「あのころは、角さんの独り舞台だったね」
 当時、国鉄新幹線部長だった富井義郎は言う。 富井は連日、 「新幹線をわが町に」 という陳情を受けていた。 陳情団の数は、一日平均5つはあったという。 富井は、陳情団の多さもさることながら、田中経由の陳情に悩まされていた。
「県会議員などが国鉄に陳情に来る時、角さんの書いたメモ用紙を持ってくるんです。 マジックか何かでササッと書いてある。 ここのルートはこうするとね。 陳情に来た人は、『角さんがこう言っていたから、あんた、こうしなきやだめだぞ』 と強気でした」
 先の田中と鈴木の会談では、もう一つ重要な合意がなされた。 調査5新幹線とは別に、さらに4つの路線を新しく調査線として基本計画に組み入れ、1985年の完成をめざすというものである。 4つの路線とは、東京から中央線経由で名古屋、大阪、北四国、熊本を通る列島縦貫線、小倉から大分、宮崎経由、鹿児島までの日豊線、富山から新潟、青森までの日本海側縦貫線、室蘭、札幌、旭川を結ぶ北海道第2線である。 それぞれ長大なものであるだけでなく、全国新幹線鉄道整備法案の時、田中が最も熱心に検討した地方と地方を結ぶ新幹線でもあった。
 しかし、これはまだ序章にすぎなかった。
 田中がヨーロツパ、ソ連を歴訪していた9月28日、田中不在の閣議で主要閣僚が、全国新幹線網計画について一斉に批判を開始する。 膨大な新幹線網建設は全国的な地価上昇、物価上昇につながりかねないということを問題としていたが、批判の理由はそれだけではなかった。 田中主導で行われている新幹線の路線決定に、不満が募っていたのである。
 福田赳夫行政管理庁長官が口火を切った。
「路線決定の手続きと見通しについて説明してほしい。 大蔵、経企などと打ち合わせて慎重に行うべきだ」
 小坂善太郎経済企画庁長官も言った。
「路線決定は、国土総合開発法など地価抑制政策が軌道に乗ったあと行われるべきものだ」
 これに対し、三木武夫副総理はもっと露骨だった。
「新幹線建設にあたり、特定の人が不当な利益を得るおそれがあるので、こうした面での配慮が必要だ」
 全国新幹線網計画は、批判の集中砲火を浴びていた。 この日を境に、田中に批判的な声が表立って聞こえるようになる。
 しかし田中は、自分に向けられた批判にあらがうように計画を推し進める。
 10月11日、最後の訪問国ソ連から帰国した田中は、直後の記者会見で、全国新幹線網計画に対する批判について
「( 昭和 )60年までに7,000キロの新幹線を建設することは党議として決定している」
と反論、追加路線を取り下げる考えのないことを表明した。
 10月12日、田中は、午前中の閣議の前に新谷寅三郎運輸大臣から外遊中の国内の動きについて報告を受けた。 田中と新谷は、新たに9新幹線約3,400キロメートルの調査・建設の建議を鉄道建設審議会に要請することで合意した。
 新谷は閣議のあと、こう言っている。
「今後建設する9新幹線の延長は約3,400キロメートルで、今までの新幹線3,500キロメートル( 東海道、山陽、東北、上越、成田と前述の調査5線 )と合わせ、今年5月に決定された経済社会基本計画による全国新幹線網7,000キロメートルを昭和60年までに建設するという構想にマッチするわけだ」 ( 『交通新聞』 1973年10月13日 )
 新たな9新幹線とは、9月、田中が鈴木との会談で決めた新たな4路線を、北海道( 札幌-旭川 )、北海道南回り( 札幌-室蘭 )、中央( 新宿-甲府-岐阜-高山-奈良北部-大阪 )、西部縦貫( 大阪-明石-鳴門-高松-松山-佐田岬-大分-熊本 )、九州東( 博多-大分-宮崎-鹿児島 )、日本海( 青森-新潟-富山 )の6路線に編成しなおし、さらに奥羽( 福島-山形 )、湖東( 敦賀-米原-大阪 )、山陰の3路線をつけくわえたものである。 その後、9新幹線計画は、西部縦貫線を四国( 大阪-徳島-高松-松山-大分 )と九州横断( 大分-熊本 )に分け、10新幹線計画とされた。
 これに驚いたのは福田だった。 今、新幹線計画を拡大すればますますインフレに拍車をかけ、投機ムードをあおることになる。 福田は16日の閣議のあと、田中と会談した。
 福田は、10新幹線計画について 「物価政策、地価対策、投機対策の見地から、慎重に扱うべきだ」 と述べたが、田中は自分の意見を曲げなかった。
「趣旨はよくわかるが、新幹線網計画については、いろいろいきさつもあることなので、新谷運輸大臣の意見を聞いたうえで考える。 建設にあたって物価、土地対策に配慮することはもちろんだ」 ( 『朝日新聞』 1973年10月16日夕刊 )
 会談はわずか15分間。 部屋をあとにした福田は嘆いた。
「角さんは、鉄道に相当の執念を燃やしているからなあ。 あれは鉄道立国論だよ」 ( 『朝日新聞』 10月17日 )
 田中の意志は固かった。 福田との会談の直後に新谷と会い、追加の10路線も早く進めるよう、はっぱをかけた。
 田中の指示により、10新幹線は 「構想」 の段階から 「建設」 へと一足飛びに進む。 新谷は当初、17日に鉄道建設審議会を開き、とにかく10路線の建議をさせようと考えていた。 通常の鉄道建設の場合、鉄道建設審議会の建議を受けてから、数ヵ月かけて運輸省が輸送需要や収支の見通しを調査し、基本計画を作成して、再び審議会に諮問する。 新谷は、建議から諮問までの数ヵ月の間に閣内の批判を説得できると見込んでいた。
 しかし、田中は持てなかった。 17日の審議会を少々延期してでも、審議会に一気に基本計画を諮問し、計画を具体化するところまで持っていくことを求めた。 鈴木総務会長も、田中の案を全面的に支持していた。
 この日、鈴木は記者会見の席上で福田を批判する発言をする。
「新幹線計画は、政府が決めた経済社会基本計画の枠内であり、安定成長論に立っても、1985年ごろの物資輸送量を確保するためには不可欠な計画である」
 党三役が重要閣僚を批判するのは、きわめて異例のことだった。
 田中が新幹線網計画のいっそうの拡大を決定したのは、10月16日である。 その翌日の17日に、OPECは石油生産の削減を発表したのだった。 日本が石油危檎への不安を徐々に抱き始めるさなかに、田中は新幹線網計画をさらに拡大しようとしていたのである。
 2日後の10月19日、閣議の前に田中は新谷運輸大臣を呼んだ。 新谷は会談後、記者団に言った。
「現在までの新幹線計画は、整理すると6,700キロメートルで、300キロメートルほどゆとりがあるので、10新幹線に合わせ、追加諮問したい。 現在追加してほしいという路線は10線近くあるが、全部入れるわけにはいかず、鈴木会長らと来週前半までには追加の路線を決めたい」
 基本計画の7,000キロメートルという数字にこだわり、さらに路線を追加しようというのだった。 当時、候補として、松江-高知間、東京―水戸-仙台間、大阪-新宮-名古屋間、旭川-稚内間などが名のりをあげていた。
 当時、島根県選出の衆議院議員で、自民党交通部会の委員だった細田吉蔵も、地元への誘致に積極的に動いた。
「僕も、米子と岡山の間の伯備線を入れるのに頑張った。 この時に計画に入っていないものは、永久にできないからといわれていて、みんなが入れろ入れろと騒いだもんだ」
 10月26日、閣議後に、田中は新谷運輸大臣と会談し、鉄道建設審議会に12新幹線を諮問することを決定する。 先の10路線に、中国横断( 松江-岡山 )と、四国横断( 岡山-高知 )が加わった。 あくまで1985年度までに残りの3,500キロメートルを完成させ、総延長7,000キロメートルをめざそうとしたのだった。
 富井義郎は言う。
「7,000キロメートルの新幹線ができるんだというムードになって、みんな浮かれて、お祭り騒ぎのようになっていました」
 12新幹線の諮問を決定したこの日、田中はNHKの番組 「総理に聞く」 に出演し、みずからの新幹線構想の正当性を延々と語った。
「6,000万人の人口を持つ西ドイツが、6,000キロメートルのアウトバーンを侍ちながら、どうにもならなくなって鉄道建設に目を向けましたが、米国も英国も同じ傾向にある。 西ドイツのことを考えると、日本では新幹線も高速道路も1万2,000キロメートルは必要だ。 これが地価を押し上げるとの批判があるが、一本ずつ建設するから買い占めなどが起こるので、全国一斉に着手すれば、買い占めるだけの金はどこにもない。 だから地価値上げを招くというのは机上の論議だ」
 そして、インフレ問題についても自信たっぷりに述べた。
「インフレは大きな問題で、まともな引き締め方では締まらない。 緊縮財政、不景気政策をとれとの議論もあるが、それなら所得政策や賃金、物価の凍結を先行させなければならない。 企業の流動性資金を吸収すれば12月から来年3月にかけて、かなり物価はおさまってくると思う」
 結局、10月30日に聞かれた第62回鉄道建設審議会で、12新幹線の基本計画案が諮問され、11月2日、原案どおり答申された。 田中の指示は、やはり絶対だった。 田中はこの段階でも、列島改造という政策の転換は必要ないと固く信じていた。
 しかし世論はもう、田中に対して黙っていなかった。
「全国新幹線や大型減税など、政府が打ち出している政策はインフレを加速するのではないか」
11月1日に聞かれた物価安定政策会議では、消費者代表や学識経験者などの委員から、田中内閣の政策に批判が噴出した。
「政府が今年の生産者米価を大幅に引き上げたことが、そもそもの発端ですよ」
 と追及する消費者代表に、田中は反論した。
「農民の所得をサラリーマン並みに引き上げるわけにもいかないのだから、しかたないではないか」
 2兆円減税についても、消費者側からインフレを刺激するのではないかという指摘があったが、田中は 「減税をやれという声は多い」 と突っぱね、別の対策を考えると答えた。
 田中は、消費者代表の意見にほとんど耳を傾けることもなく、一方的に反論を繰り返したのだった。
 11月11日、全国各地で、高騰する物価とそれに対する政府の無策に抗議する 「物価メーデー」 の集会が、総評、中立労速などによって聞かれた。 東京・代々木公園では国民総決起大会が行われ、のぼりやゼッケンに怒りのメッセージを込めた労働者たちであふれかえった。 田中の似顔絵入りのプラカードには
《 犯人だ。 物価高と公害殺人の極悪人 》
《 角よ、国さ帰れ 》
 などと、田中への抗議の数々が書かれていた。
 表向きは強気の姿勢を見せる一方で、田中は内心、政策の行き詰まりに悩んでいた。 ある日、主計局長の橋口は田中に総理官邸に呼ばれ、来年度の予算の伸び率について打診を受けた。
「普通に予算を組むと、前年比28%くらいの伸び率になるはずでしたが、『今のところ、23%くらいまでは何とか切り詰めることはできるでしょう。 ただ、物価がこれだけ上がっていますから、去年とのつながりにおいて、相当、影響が出るでしょう』 と言ったんです。 田中さんは、『22%くらいにならないかな』 というようなことをおっしやっていました。 抑えたいという気持を持っていらしたことは、まちがいないですね」
 官房副長官の後藤田も、田中の苦しみを近くで感じていた。
「もともと、ああいう積極論者であるし、強気一本の方ですからね、なかなか表に出しては弱みというのはお見せにならないけれども、物価がどんどん上がることについて、非常に悩んでおられたことは事実ですよ」
 悩んでいたとしたら、なぜ思い切った政策転換ができなかったのだろうか。
「あれだけの歓声の中で始めた政策ですから、『あれやめた』 というのは、できない話ですよ。 列島改造をやめる時は、自分が辞任する時ですよ」
 進むこともできず、方向を変えることもできず、立ち往生する田中。 しかし、ついに田中が最後の決断を迫られる事態が訪れる。 それは、最も大きな信頼を寄せてきた愛知大蔵大臣の死だった。 そして、田中はライバルの福田赳夫を大蔵大臣に迎え、経済政策を福田にゆだねた。